“姑息”というと不正なこと、卑怯(ひきょう)なことを想像して、やってはいけないことを思われているところがあります。物事を進めるときには、本来なら地道に一歩ずつ進めて、着実に前進させていくことを目指すべきなのでしょうが、そうもいかないという状況は多々あります。
そのために、一時しのぎとして時間内に間に合わせる手段を選択することがあるのは仕方がないことです。そういった何とか間に合わせて帳尻合わせをすることが“姑息な手段”の本来の意味なのですが、今では本来の意味でなくて、間違った使い方のほうが広まってしまっています。
文化庁の「国語に関する世論調査」の結果を見ると、姑息を「しばらくの間、息をつくこと、一時の間に合わせに物事を行うこと」という本来の意味で使っている人は15%ほどでしかありません。70%が間違った「卑怯な」という意味で使っています。
姑息は『礼記』の孔子の門人の曽子の言葉に由来しています。病床の曽子は身分に合わない上等の簀(すのこ)を敷かれていましたが、これを取り替えるように命じます。しかし、息子は病気が治ってから取り替えると言い、それに対して度量の低い人は一時しのぎの姑息な手段をすると言って諭します。
その後、曽子は亡くなり、姑息な手段で生き長らえるよりも、正しいことをして死ぬほうがよいという考えが伝わりました。
健康づくりのための方法として、死んでしまったことを例としてあげるのが正しいのか疑問が残るところではあるのですが、多くの人に正しい方法を伝えるべき立場にある人が、そのときに自分の都合に合わせて一時しのぎのようなことをしてよいのか、再考するときに“姑息”の意味を思い起こすように伝えています。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕