浄土真宗でするべきことは阿弥陀如来への信心です。信心して往生させてもらうことは他力本願です。この他力本願という言葉を出すまでは、なんとなく納得してくれていた方が、急に態度を変えることがあります。
他力本願のように他に頼るのではなく、自分の成功は自分の力、努力の結果であって“自力本願”だと言いたいのは理解できます。しかし、親鸞聖人の教えを引き合いに出すなら自力というのは阿弥陀如来の本願を疑うことであって、自力本願の自信が苦を生み出すことになっているのですが、このことを理解してもらうまでには、かなりの時間がかかります。
他力本願というと、他人に頼って生きていくというイメージがあって、あまりすすめられることでもなければ、褒められることでもないという行動指針に思われがちです。
仏教の世界では、修行というと苦行を指すことがあります。坐禅や瞑想、それも室内で行うことではなくて、屋外で雨風に晒されながら、心身の限界まで挑むという印象があるかもしれません。
その苦行を経験することで、自分自身を磨き、願いをかなえていくというのは自力本願です。苦行とはいかないまでも、五穀断ちをする人もいます。これは穀物を人間の穢れにまみれた俗物の代表的なものと考えて、それを避けることで身を清廉にして修行に取り組もうとすることを指しています。
五穀断ちをすれば、それが修行になるということではなくて、修行のアイテムの一つだとは思うのですが、お茶断ち、酒断ちをして、それも短い修行期間だけこなして、修行をした“気分”になるという略式の感覚が広まっているようです。
そのようなことでも、頑張った自分に優越感を得て、自力本願としてするような感覚が世間にはあることも違和感があるところです。
このようなことを書くのは、私が大学や社会人として学ばせてもらった仏教の世界では、自力本願は不要で、阿弥陀如来を信心する他力本願だけが存在しています。これは浄土真宗の開祖の親鸞聖人の教えに従っているだけです。
この教えに従って本願を得る場が本願寺となるわけですが、信心をするのは、ただワンフレーズを唱えればよいということではなく、経文を読み続ければよいということでもありません。
親鸞聖人の教えを真理として、自分の行いとのズレを確認することが信心の修行であり、信心のためには小さなことであっても実践し続けることはあります。この修行は、短期間の苦行とは違って、“小さなことをコツコツと”という芸人さんのフレーズではないのですが、生きている限りは実践し続けるという終わりがないことなのです。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕