大学で学んだのは法律で、他に社会学部と文学部で学ばせてもらいましたが、どこも物書きの世界とはかけ離れたところにありました。文学部といっても教授の許可で聴講させてもらったのはインド哲学であったので、原稿を書いて食べていける世界ではないと感じて、教授の紹介で通わせてもらったのは作家の先生のところでした。
その先生は有名な雑誌の編集長だった方で、長く学ぶつもりで弟子入りしたのに、先生の体調のために私は最後の弟子となりました。それは大学2年の時でした。これで物書きの道はないのかと思っていたら、先生の息子さんが有名なクラシック音楽雑誌の編集長で、原稿を書かせてもらえるというので、喜んで出版社を訪ねました。
初めの仕事は、レコード会社を回って、LP盤をもらってきて、見本に合わせて原稿を書くことでした。ほんのアルバイトだったのですが、先生のところに出入りしていた小説雑誌を発行する出版社の社長が音楽関係の原稿を見てくれて、会社に呼んでくれました。これは大学3年の時でした。
会社の外で話をしようと言われて行った喫茶店で言われたのは、アルバイトとして厨房関連の工業会の月刊機関誌の原稿書きでした。なぜ小説を出している出版社で機関誌なんだろうかと思って詳しく話を聞くと、出版社の社長が個人的にアルバイトをしていて、そのアルバイトとのことでした。
これも修行のうちかと思って、監督官庁や業界各社を回り、原稿書きをしてきました。大学4年生になって、業界紙で勉強するのも悪くはないかと思っていたときに、電線関係の業界紙で記者をして従兄弟から、自分の会社に来ないかと誘われ、社長にも会わせてもらいました。
他に就職活動をしないように言われて、厨房業界のアルバイトを続けながら待っていたのですが、もうじき卒業というときになっても連絡がないので、こちらから業界紙の社長に連絡をとったところ、従兄弟は会社を辞めていました。
「小林の就職先は自分が探すから」と言って去っていったということを聞きましたが、従兄弟から連絡はなく、困っているところに厨房業界の事務局長から連絡が入りました。そして言われたのは「引き続き機関誌の原稿書きして、編集もしてほしい」ということでした。
編集は出版社の社長がやっていたのですが、会社にアルバイトをしていることが知られて、アルバイトをしないことを条件に会社に残ることができたということでした。
職員に雇われるのではなくて、フリーの立場でしたが、契約を結んでもらいました。これが私が就職もせずに、ずっと生きてくることになったスタート地点でした。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕