“奇跡の9連休”と呼ばれる2024年から2025年の移行の間に東京人脈とのオンライン会議がありました。表向きのテーマは「昭和100年」で、昭和99年から100年になるときに、各業界で、さまざまなことが起こることが懸念されている“昭和100年問題”に関して情報交換をする場でした。
昭和100年問題については、日本メディカルダイエット支援機構のホームページの最新情報の中に「昭和100年」のテーマで書いてきました。その最後の掲載は明日(2025年1月3日)です。
表向きではない会議の内容は詳しくは書けないのですが、その会議を通じて7年と9か月前に東京から岡山に移住した私を東京にUターン移住させようと動いていた霞が関や永田町の方々に最終決断を伝える機会になりました。
画面を通して会話をするメンバーの中には、なぜ私が厚生労働省との付き合いが深かったのか、なぜ古希が間近なのに人脈と情報交流ができているのかを知らない方もいたので、そこから話をさせてもらいました。
1986年に病院栄養管理研究所に主任研究員として参加しました。所長は国立病院に所属していた管理栄養士のトップで、同時期に日本栄養士会の理事長も務めていました。当時の厚生省の栄養専門官、栄養指導官は国立病院の管理栄養士が人事派遣されていました。
所長の後輩が霞が関の栄養行政の担い手であったことから、その部門に私は普通に出入りしていました。新たな栄養関連の施策を立てるときには、外部の専門家の支援が必要で、その一部を所長が担っていました。
その手伝いという形で、“いろいろな仕事”をさせてもらいましたが、そのときに一緒に仕事をさせてもらった方が、厚生省と労働省が合併して厚生労働省になったとき(2001年)の初代の厚生労働事務次官となったこともあって、ますます“いろいろな仕事”をすることになりました。
そのことは、これまでの連載コラムの中で少しずつ書き残しています。
1999年には巡回健診の最大の全国団体の編集委員になり、月刊情報誌の編集を2012年まで務めました。この期間には霞が関の仕事は厚生労働省から他の省庁に広がり、メタボリックシンドローム対策の特定健診・特定保健指導が始まった2008年に、特定非営利活動法人日本メディカルダイエット支援機構を設立して、理事長に就任しました。
その役員には、臨床栄養、薬学、運動科学などの専門家がいて、お役所からの紹介も受けましたが、博士号を持つ方も複数いました。
2015年には機能性表示食品制度が立ち上がり、その年から消費者庁の機能性表示食品の委員を、岡山に移住する寸前の2017年3月まで務めました。その後も霞が関と永田町との連携は続き、公式の役目が解かれたのは2023年9月末のことでした。
その後も非公式では付き合いをしてきたものの、一般の「メディカルダイエット」のイメージに近いことをしてきました。
そのイメージに近いことは、日本メディカルダイエット支援機構のホームページの最新情報に書き続けてきていて、今日現在(2025年1月2日)で、7294本となりました。
これに目を通してもらえれば、何をしてきて、何をしようとしているのかは、私の背景を知っている方には理解してもらえるように書いたつもりです。
その理解してもらえるようなことは、まだまだ続けられるところまで続けていきます。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕