お題の“自業苦”も“業苦楽”も、洒落(しゃれ)のような感じがする言葉ですが、これは浄土真宗の開祖の親鸞聖人の教えに出てくるものです。これについては日々修行13で書いています。
私が3歳のときから小学生になる寸前まで過ごした母親の実家は浄土真宗の寺院で、住職(祖父)と檀家の方々との話を聞くともなく聞いているうちに、学んだことの一つです。
浄土真宗には、他の宗派のように地獄は存在していません。浄土真宗の信者は、誰もが亡くなった後には極楽に行くことができるというのが根本的な教えです。
地獄という言葉は出てこないのですが、別に「じごく」と読む言葉があり、それは“自業苦”と書かれます。
自業は自業自得の前の部分で、自分が行ってきたことによって苦しむことが“自業苦”となります。自業は何も悪いことや失敗をしたことだけを指しているのではなくて、自ら行ったことが結果として現れているということで、よいことをしても苦しむことは当然のようにあります。
例えば、他の人に比べたらよい生活をしている人が今の生活を崩したくない、もっとよい生活をしたいと望み、それがかなえられないこと、思ったよりも歩みが鈍いことを苦しみのように感じることがあります。これも自業苦”です。
この苦しみを、楽に変える生活ができれば、業の苦が楽になるということで“業苦楽”(ごくらく)となります。自業苦がなければ業苦楽もない、つまり苦しみを感じて自分を変えることができた人は、すべてが極楽に行けるという極楽往生の発想です。
しかし、誰でも極楽に行ける、念仏を唱えるだけで極楽に行けるという簡単なことではありません。浄土真宗の本尊である阿弥陀如来に信心をすることで極楽に行くことができるということです。
地獄という概念がないので、一生懸命に信心しないと「地獄に落ちる」ということもありません。地獄に落ちたくなければ善行を積めばよい、と言って(脅して)苦行や、苦行がわりの金品を求めるということもありません。
四十九日は一般には地獄に落とされないように遺族で祈る法要で、浄土真宗でも行われています。しかし、これは個人を偲ぶ会という性格です。
亡くなった人の魂は極楽に行って、この世に残っているわけではないので、お墓は祖先を偲ぶ場であって、そこで祈りを捧げると魂が現世に戻ってくることもありません。
お盆は他宗では迎え火と送り火が行われますが、浄土真宗では送り火も迎え火もなく、お盆に行われていることも他宗と比較して初めて知りました。
お盆に墓参りをすることはあっても、これも故人や祖先を偲ぶために集うだけです。散骨を初めに認めたのは浄土真宗だと聞いています。
このようなことを再び書いたのは、発達障害の支援活動の中で、自業について考えさせられることがあったからです。それについては次回(日々修行132)に、これからの発達支援に取り組んでいく上での、自ら注意すべきこととして書かせてもらいます。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕