27歳から47歳まで住んでいた原宿(住所としては神宮前)は、地図的には渋谷と新宿の間の明治通りと、北青山と代々木公園の間の表参道がクロスするところです。道路としての交差点(十字路)ではあると同時に、“情報交差点”とも呼ばれていました。
その情報というのは、ファッションをはじめとしたショップや、それを取り上げるメディア(出版社やテレビ局)が発信している内容を指していますが、さまざまな情報が交錯していて、何が新しいのか、何が正しいのか、よくわからないという状況がありました。
原宿の住人になる以前から出版社の雑誌編集部門、テレビ局の番組編成部門と付き合いがあったことから、かなりの方々が会いにきてくれました。当時の原宿は若者文化の発信地とは呼ばれていたものの、最新情報は自分たちで見て、探すしかない時代でした。
そんなときに、毎日のように原宿の交差点周辺を歩いていたので、新たな発見があり、そのことを伝えると、他にないか、もっとないかということで紹介をしていました。私が見つけたことだけでなく、見つけてほしいことの依頼があり、それも受けるようになりました。
情報発信をしていたのは講談社、集英社、小学館、光文社、マガジンハウス、双葉社、扶桑社、当時は新興であった宝島社などで、毎日のように原宿から表参道の取材があり、新規店舗の案内もさせられていました。
そのうちテレビ局からの依頼も入り、すべての民放全国キー局と付き合うようになりました。NHK(渋谷区神南)は原宿まで歩いてこれる距離だったので、ほんの少しだけの付き合いでした。
その頃から原宿・竹下通りにタレントショップがオープンし始めて、雑誌やテレビ番組で紹介されるようになると、次々にオープンしていきました。その情報を他誌・他局よりも早く手に入れようと情報合戦が起こりましたが、その先取り情報は得意としていました。
というのは、原宿に住む親戚(大学教授)が教え子に任せていた不動産会社が竹下通りにあって、タレントショップの出店場所を、ほぼ扱っていたからです。
その頃に私が住んでいたのは、竹下通りから明治通りを渡って、2本目の道を曲がって3軒目の一軒家でした。いわゆる裏原宿ではあったものの、アパレルの本社などがあって、グッズショップは片手で数えられるほどで、うるさく感じることはありませんでした。
住まいの裏(道路は1本違っている)に新たなタレントショップをオープンさせることになったということで不動産会社の知人がオーナーと一緒に挨拶に来ました。それは中山美穂さんの母親でした。
店舗の名前はAUBE JAPONで、扉に小さく「中山美穂」と書かれていました。
こんなところまでタレントショップが進出するとは、もう限界かと感じて、そのような情報を出版社に流したことがありますが、数年を待たずにタレントショップが次々に撤退していくことになりました。
ここでつながったメディアの方々との情報交換は、原宿から移動してからも、私が東京を離れるまで続きました。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕