東京にいたときには、メディア各社の方々と、メディアで取り上げられることが多い原宿・表参道の店舗とファッションを結びつける活動をしてきました。広告代理店やPR代理店の邪魔をするようなことではなくて、「店舗→代理店→メディア」の一連の流れがスムーズにいくようにサポートしてきたつもりです。
これを稼ぎのネタにするつもりはなくて、請求書を書かなくても期待するくらいの働いた分のギャラが勝手に飛び込んでくるという感覚でした。それぞれは経費の中から出てくる程度であったのですが、“塵も積もれば〜”のような感じで、不足することはなかったと今にしてみれば言えることです。
自分としては、AさんとBさんは、それぞれ独自に動くよりも連携したほうがよいのではないかという感覚で、どちらかといえば“小さな親切”のような行動でした。
それを“大きなお世話”と感じる人もいたのですが、2人の間では違いに同じ感覚であったとしても、周囲との関係、もっと広い大きな流れで見ると、「つなげてよかった!」と思えることが数多くありました。
そのような接続の依頼は、初めこそは具体的な目的があってのことでしたが、だんだんと間接的なつなぎ、すぐにではないものの先々は重要になる出会いを求めることに変わっていきました。
そして、同じ方向を向いている人を結びつけたことが、実際に成果として現れるようになると、コーディネーター(紹介屋?)と呼ばれるようになっていきました。
この役割は、私が東京から岡山に移住する寸前まで続きました。
私の移住を引き止めようとしてか、「あなた以外はできない」と言ってくれる人もいました。そう言われても、移住の決断はしていたので、移住前に仕事先をつなぎ、すべてバトンタッチしてきました。
次々に仕事をバトンタッチすることで経験と人脈を重ねてきましたが、これは私の一か所にとどまれない性分の成せる技で、バトンタッチは楽しい活動でもありました。
バトンタッチさえすれば続いていくはずだったのですが、私が思ったようにつなげて発展させていくことができなかった人も多くて、これは“コロナ禍で何も動かなくなったせい”ではなかったようだと感じています。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕