日々修行156 酒のジャーナリストへの道

日本酒は物心がついたときから身近なところにありました。母親の実家(新潟県出雲崎町)は寺院で日本酒は仏事に欠かせないもので、父親の実家(新潟県柏崎市)は米屋で業務用の酒米も扱っていました。

寺院では儀式の日本酒では、さすがに飲んで乱れることはないものの、それ以外の集まりでは飲んで乱れる人も目にしていました。

このことについて父親は「酒は飲んでも飲まれるな」と口癖のように言っていました。酒に飲まれて自らを見失うことがないようにという意味ですが、それは父親が警察官で、駐在所という地元に密着したところが勤務地だったこともあったようです。

その反面、家で飲むときには「酒は百薬の長」とも言っていました。適量の酒はどんな良薬よりも効果があるという意味で、適量の飲酒をすすめる言葉です。酒は量と飲み方によっては薬にも毒にもなるということです。

父親の転勤のために転校した小学校にも中学校にも造り酒屋の息子が同級生にいました。また、大学ではサークルの2年後輩が秋田の銘酒の杜氏の息子で、貧乏な学生なのに日本酒だけは欠かすことはありませんでした。

大学生のアルバイト先が、1年生のときは政治家の私邸の錦鯉の世話の流れで、新潟県の日本酒を提供し、それが終わってから自分にも回ってきました。このときは成人ではなかったので、口をつけるだけ(ということにしておきます)。

2年生のときには作家の先生のところに出入りしていたので、ここでも日本酒はつきものでした。そのときには成人でした。

3年生のときには割烹でのアルバイトをしていて、お客さんに付き合うことはあったのですが、力士が多い店で、力士の飲み方には驚かされました。日本酒だけでは物足りず、ウイスキーをストレートで飲む姿に、身体が大きいと体内でアルコールが薄まって、そんなに酔わないということを納得することになりました。

4年生のときには厨房業界の全国団体の月刊機関誌の編集のアルバイトで、宴会の席にも随分と参加しました。さまざまな飲み方を見てきて、いつか酒のことを書くことがあったら役立つ(であろう)経験をさせてもらいました。

社会人になったときには、東京農業大学の発酵科学の教授との付き合いが始まりました。酒の席に呼ばれることもありましたが、先生の実家の宮城の酒造会社の銘酒が次々と出てきて、もう味も何もわからなくなってから他の銘柄が出てくるという状態でした。

その紹介もあって酒のペンクラブの会員となり、定例会(という飲み会)には全国の蔵元が参加して、新たな日本酒が次々と持ち込まれていました。東京には全国の地方物産館があり、そこを巡っては日本酒と合う地域の味を知って、それを文章にして発信するということをしていました。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕