大学を卒業してから50年近くを経た今も、就職をしたことがありません。そのため、給料もボーナスももらったことがなくて、周囲から物知りと言われることがあっても、会社組織や給与支払いのことはイマイチ把握ができていないことがあります。
卒業時には就職難の時期で、就職浪人が普通にあって、大学受験で浪人をして就職時に浪人をして、年齢の問題で就職できずに自分で稼ぐしかないという同級生、同窓生が何人かいました。
今回のお題の「組織に属さない50年間」は大学卒業後からのカウントではなくて、大学生のときに仕事をして分も含めています。その仕事はアルバイトではなく、今の時代のような起業でもなくて、仕事として学業と両立させていました。
といっても“二足の草鞋”ということではなくて、大学で学んでいたことと仕事に通じるところがあって、まさに両立させているという感覚で働いていました。
詳しくは別の機会に書いていきますが、大学1年生のときには政治家の私邸で錦鯉の世話をしていて、年を経るごとに回数こそ減ったものの3年生まで続きました。2年生のときにはクラシック音楽専門誌の編集と原稿書きをして、これは3年生まで続きました。
3年生のときには知人の親戚の割烹で調理補助を始めて、これは4年生まで続けました。4年生のときには、クラシック音楽専門誌の編集長のお父様を通じて知り合った出版社の社長の関係で厨房機器の業界団体の月刊機関誌の取材・執筆・編集が始まりました。
この仕事は1年限りの約束だったのですが、就職先を紹介してくれるという親戚が持ち込んできた話が反故にされて、卒業後も機関誌の仕事を継続することになりました。
親戚の人は業界紙の編集部にいて、そこに就職できるので他の会社への就職活動はしないように、と言われていました。社長にも挨拶をして、機関誌の編集の仕事の実績を見てもらい、気に入ってもらっていました。
そろそろ卒業の時期ということで、その社長に連絡をしたところ、驚きの出来事を知りました。親戚の人は、すでに退職をしていて、私の就職先は親戚の人が責任を持って探すから、と聞かされていたとのことでした。
何があったのかと親戚の人に連絡をしたら、謝りや説明をする前に、私がやってきた機関誌の編集を自分にもやらせてもらえないかと言われましたが、さすがに断りました。
業界団体に行って、仕事がなくなったことを伝えました。
そのときに専務理事から、機関誌の編集を続けてほしいとの話がありました。しかも間接的なアルバイトではなく、私が直接受けて手がけるということでした。その理由として聞かされたのは、受けていた出版社はオーナーに隠れての秘密のアルバイトで、それがバレてしまって手を引かざるを得なくなったとのことでした。
なんだか、他人の思惑に振り交わされた感じでしたが、そのときの編集経験が、その後の病院調理師団体の機関誌、臨床栄養の機関誌、病院給食業界の機関誌、巡回健診団体の機関誌、サプリメント講習の講師、運動関連団体の理事としての活動へとつながるスタート地点となりました。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕