日々修行21 近くにいる人を大切にする

現在の環境は、それが好ましいことであれば、ずっと続くことを願うのが通常の感覚で、願うところまでいかないとしても、現状が継続されることを前提として暮らすのが普通のことです。

しかし、私の場合は、父親が警察官で転勤によって住むと地域が変わるのが当たり前のことだったので、ずっと同じところにいるという感覚はありませんでした。

だからといって親元から離れた後も住まいを転々と変えるということは普通ではないのかもしれませんが、移動した先には新たな出会いがあって、新たな経験ができるという感覚はあります。移動することを避ける、嫌うということはなくて、他の人なら躊躇することであっても平気なところがありました。

住処や仕事場を移動するときに、今よりもよい環境、もっとよい結果を求めるのは、よくある感覚で、これは「自分の居場所は、ここではない」と常に新たなことを求めて浮遊し続けている人と通じることがあるようです。

私の場合は、父親の転勤に従って転校するという生活だったことから、与えられた環境に住むのが当たり前でした。それは住まいだけでなくて、地域の環境も住人の感覚や行動が違っていても受け入れるしかなくて、前よりも環境が悪化するのも普通のことでした。

3歳になる前から未就学の期間、親元を離れて母親の実家の寺院で暮らしていたときは、近所の子どもたちは遊びにくるものの、それは保育園や幼稚園の帰りに目当てがあって(お菓子をもらえるというのが多かったようで)寄っていくということでした。

私は保育園にも幼稚園にも行かず、最後の半年間だけ同年代の子どもとの交流を経験させようとして(これは後に祖母から聞いたこと)他の寺院が経営している保育園に通っただけでした。

これも祖母から聞いたことですが、未就学の期間しか寺院にはいないので、地域の子どもたちと離れることに寂しさを感じることがあってはいけないというのが、保育園にも幼稚園にも通わせなかった理由とのことでした。

小学4年生のときに1年だけいた地域には映画館があって、初めて映画を映画館で観れるということで、月に2回は怪獣映画を見に行っていました。それまでに見た映画は、小学校の体育館での上映会で、その頃は映画館という存在は知りませんでした。

その後の転校先には映画館もなく、本屋も小さなところが1軒だけで、そのときになって本や雑誌が大切なものだという感覚になりました。それもあって中学2年生の途中で転校したところは書店が2軒あり、学校の帰りには毎日のように通っていました。

高校時代は父親の実家の近くの高校に通うため、親元を離れていました。これは叔母(父親の姉)から後に聞いたことですが、高校の3年間だけは同じところで学ばせたいという考えだったようです。

大学を卒業したら故郷に戻るという選択肢もあったのですが、大学生のときに私の父親の実家、母親の実家がある地域が選挙区の政治家の私邸に出入りしていたときに、柏崎刈羽原子力発電所の着工が決まり、実家は弟に任せることにしました。

移動が多かったこともあって小学校から高校までの友人は、ほぼいない状況で、大学時代の知人は合唱団のOBと浄土真宗について学び合う同年代の方々だけです。それもあって、新たなところで、新たな出会いを求めて、そこで知り合った人を大切にしていくという“一期一会”の感覚となり、常に「これが最後かもしれない」との考え方につながっています。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕