日々修行223 よいことだけを味わいたい

味わうというのは、何も味覚だけのことではなくて、視覚を使って絵画や書などを鑑賞することにも、聴覚を使って音楽や自然の音を鑑賞することにも該当する表現で、主には芸術作品に接して、理解することを指しています。

この考え方からすると、嗅覚を使って香りを嗅ぐことも、触覚を使って手触りなどで鑑賞することも含まれるようですが、味わうというのは、よいものを鑑賞することに対しての表現で、悪いもの、好ましくないもの、どちらかといったら避けたいものに使ってよい表現ではないことになります。

本当に優れたものを味わうためには、五感のすべてを活かして接することをしないといけないわけで、そのためには“修行”が必要と考えています。何も修行をしなくても、美味しいものは美味しい、綺麗なものは綺麗だと判断することはできます。

多くの人が認める素晴らしい絵画を見て、これはよくない、自分にとって刺激的すぎるということがあっても、このことを大声で主張するようなことをすると(今の時代は声に出さない表現のSNSを使っての誇張した拡散も)、異端とみられるようなことにもなります。

味わうには修行が必要だと考えるといっても、通常の味覚があって、それなりのものを食べた経験があれば、“普通に”味わうことはできます。これが、よく若者言葉として指摘される「普通に美味しい」という表現につながるかもしれません。

高級な料理を食べて(中には食材が高くて、料金が高いだけのことはあるとしても)、料理人が技術の粋(すい)を出し尽くしたものを口にして、その粋を感じ取り、本来の味わいを堪能するためには、よいものを食べる経験の積み重ねは、どうしても必要になってきます。

東京にいたときには、メディア関係の仕事が長かったこともあって、料理の評価を依頼されることもありました。

「料理の鉄人」の店に招かれることもありましたが、得意料理や新作の試食という仕事は私には回ってこなくて、多かったのはシェフと若い料理人の料理の食べ比べ、飲み物の種類を変えたときのテイスティング(味の鑑定)といったことでした。

大きな飲食店になると、すべてをシェフ(料理長)が作っているわけではなくて、スー・シェフ(副料理長)が作ることもあれば、2人以外の人が作って、それをシェフなりが判定して提供するということもあります。

その提供できるレベルかどうかは通常はシェフなり、スー・シェフが味わって決めるところですが、半分(ほとんど!?)素人(私のこと)が食べることで、どこまで通じるかを判定するという機会でした。

「芸能人格付けチェック」は、どちらかがプロの料理、どちらかが素人の料理といった出題ですが、私のチェックの料理は、シェフの調理のこともあれば、若手の料理ということもあって、気を抜いて食べられないことがありました。

また、飲み物のテイスティングは、種類を変えたこと、質を下げたことが気づかれるのかどうかの判定役で、多くはワインや日本酒を変えたときでした。

一番驚いたのは鉄人レベルの店で、インスタントのコーヒーを使うことになり、その反応を確かめる役でした。

前と種類が変わったことはわかっても、それがインスタントであることまでは下で確かめることはできなくて、それをきっかけにインスタントが使われたことを後になって聞きました。

料理を味わっているようで、実は違うことを味わっているようなもので、そんな“損な役回り”を岡山に移住する前の10年ほど続けてきました。

このことは「よいことだけを味わいたい」というのとは真逆の経験でした。それが岡山の地で役立ったことは、まだありません。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕