「良いことをすれば良い結果になる」というというのは普通に考えつくことで、「小さなことをコツコツと」という有名なお笑いの師匠の口癖(モットー)を、実際にあることとして納得している人も多いかと思います。
これは“良い”ことの理解によって違っていて、一般的な感覚では「良い」は性能や効果、結果などを指しています。一般的な資質や条件を評価しているわけですが、これとは違う“善い”ことが存在しています。「善い」は人間性や倫理などに基づく評価で、そのような評価が得られる行動が“修行”となります。
修行は、働く人の場合は仕事を覚えることで、ただ仕事の技術を覚えるだけでなく、人間性を磨くことは職人としての修行に相当します。どちらが優先されるということではなくて、仕事の技術とともに人間の質も高まっていくことが理想と考えられています。
それを表す言葉として、「日々の生活や行動は修行である」と言われることがあります。
修行という言葉を使うときに念頭にあげられているのは仏教の考え方です。仏教における修行は、「真実の自己を実現するために、自らの行いを正し、修めること」を指しています。
その目的とすることは、「悟りを開くこと」です。仏教で最も尊敬される立場が言わずと知れた仏陀です。仏陀が悟りを開いたということではなくて、悟りを開いたゴータマ・シッダールタ(インドのシャカ族の部族の長の王子)が仏陀となったということです。
仏陀には「悟った者」「真理に目覚めた人」という意味があります。
悟りは煩悩や迷いが取り払われ、永遠の真理を会得することです。悟りの境地に達すると、雑念がなくなり、執着心から解放された感覚に至ることができます。そして、悟りを開くことによって、すべてに満たされた感覚となり、物事の真理を自然と知ることができるようになります。
悟りを開くためにする行動が修行であって、坐禅をすればよい、質素な生活をして余計なものを食べなければよい、他人に感謝されることをすればよい、ということではありません。
悟りを開くのは修行の最終的な目的地点であって、初めから悟りを開くことを求めるのではなく、さまざまなことを修業として受け入れ、善い結果となるように努め続けることです。
つまり、人間性や倫理などに基づく評価が自然とついてくるように、目の前の出来事に対応して、正しいと思われる方向に進めていくことです。その途中で起こること、好いことも嫌なことも受け入れて、次へと進んでいくことが修行であるとの考え方をしています。
そう考えるに至ったことは、100回の連載コラムで書き入れるか不安になるほど我が身に起こってきました。
これについては、自らに起こったことを素直に書いていくしかないと思っていますが、時系列ではなく、感情の赴くままに文字にしていくつもりです。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕