日々修行46 歌謡業界は修行になったのか

地元出身の衆議院議員が総理大臣となり、東京の私邸に錦鯉の世話のアルバイトで出入りしていたことは前(日々修行43)に書きましたが、1976年(昭和51年)に関係してきたメディア関係者が呼び集められました。

そのときに私は来客のお茶出しくらいのことで呼ばれたのですが、ロッキード事件への対策チームだったので、これまでに経験したことがない緊迫した集まりでした。そこで知り合ったのが、テレビ業界を仕切っていた大手広告代理店の重鎮でした。

ここでは出会いのきっかけだけにして、どのような対策であったのかというのは置いておくことにします。

その方は代理店の社員として退職が間近のときに台湾に代理店の支社を設立するために行き、そのときに連れてきたのが欧陽菲菲です。1971年に日本でデビューさせた後に、代理店を退職して大手芸能プロダクションの企画会社の専務に転身しました。

この企画会社はテレビ番組の企画がメインで、番組企画と出演者のマッチングもしていたことから、大手芸能プロダクションだけでなく多くの事務所の歌手、タレント、芸人、声優などとも関わる仕事をさせてもらいました。

その方は、後に別の広告代理店を台湾に立ち上げる仕事もして、そのときに連れてきたのがテレサ・テンで、1974年に日本デビューをしています。

2人の台湾出身の歌手は、それぞれ発掘した日本の音楽業界の方がいることになっていますが、広告代理店出身の重鎮が話を決めてきたことは今や公然の秘密となっています。

修行ということでは、テレサ・テンはプロダクションのコントロールで何事も問題はなかったのですが、欧陽菲菲は気ままな性格というか、マネージャーだけでは手に負えないことがありました。

その対処に、マネージャー代わりをさせられたこともあり、こんな業界の仕事はしたくないと感じるほど苦労の連続でした。それも私は他の仕事を複数抱えながらだったので、「寝る暇もないというのは、このことか」という実感を繰り返し経験させられました。

このほかにも沖縄ミュージックの普及も手がけることになりましたが、その経緯については複雑なことが絡んでくるので、別の機会に書かせてもらいます。

芸能関係、テレビ関係で手伝いをしてきた経験は、後に食品業界の全国PRを手がけるときに、大いに役立てることができました。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕