東京に住んでいたのは44年間で、6年前に岡山に移住しました。
故郷の新潟県柏崎市から大学入学に上京して、そのまま東京で仕事をしてきたのは、在学中に柏崎刈羽原子力発電所の建設が決まったことも影響しています。
東京にいたときには地方創生の仕事を大手広告代理店を通じて手がけていたのですが、その一つに岡山県和気町の地方創生の依頼があり、リサーチのために複数回現地入りをしました。その仕事も含めて、学会や研究会、調査・取材、観光を含めて岡山には15回も訪れていたので、親しみを感じている地域でした。
和気町のリサーチから戻ったタイミングで、特定非営利活動法人(NPO法人)日本メディカルダイエット支援機構の理事の一人が岡山市東区瀬戸町の出身であり、赤磐市と和気町の境に介護施設を開設して社会貢献したいとの話がありました。その理事は東京と神戸で有名な健康関連の会社を経営していました。
私の叔父が日本社会事業大学の学長を務めた三浦文夫さんで、臨床栄養とともに福祉の仕事もしてきたことから、移住しての運営の依頼がありました。私ができるのは健康関連の仕事や組織運営くらいですが、妻(国家資格の鍼師、灸師、あん摩マッサージ指圧師)、妻の妹(東京藝術大学卒のプロのヴィオラ奏者、音楽健康指導士)が施設で働くことで、姉妹の両親も一緒に移住しました。
義父は大手乳業メーカー出身の薬学博士で、テレビの健康番組や講演、書籍(著書・監修165冊)などで著名な方でした。義母は日本画家で、全国規模の展示会にも出展していました。その経験と実績も介護施設で活かせるとの判断もあり、私の東京の仕事は仕事仲間にバトンタッチして岡山に移住しました。
ところが、介護施設の予定がコンセプト変更で介護予防施設になり、最後は運動設備がある娯楽施設になり、移住から3年後には私たちのやるべきことは完全になくなりました。
そのことがわかったときに東京に戻ることも考えたのですが、私以外は岡山を気にいっていて、私が単身赴任で東京に行くのも寂しいことなので、岡山で新たな仕事を作ることにしました。そのときは65歳が目前という状況でした。
新たな仕事として始めたのは先の「ご挨拶」で触れた発達障害児の支援活動で、岡山で知り合った病院のリハビリ部長だった理学療法士が医療フタッフによる発達障害児支援施設を開設したいとの話があり、NPO法人の設立から手助けしました。それが今の複数の発達障害児支援の4法人(NPO法人、一般社団法人)の活動のきっかけとなりました。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕