2023/3/1 生まれたのは良寛和尚の故郷

新潟県出雲崎町の母親の実家の寺で生まれた私は、そのあと父親の勤務地の山奥の村で3歳まで暮らした後、再び出雲崎町の寺で3年間、親元を離れて祖父母と暮らすことになりました。弟が生まれて、母親も仕事を手伝う環境にあったために、2人を育てるのは難しかったからです。

出雲崎は遠景に佐渡島が見えるところで、江戸時代には佐渡金山からの積み入れ港でした。出身の著名人といえば、たった一人で、それは良寛和尚です。幼いときには地元の良寛牛乳と漁師町の魚、そして仏様の供物のお下がりで育つことができました。

住職の祖父から、よく言われていたのは「供物のお下がりで生きているので贅沢は言ってはいけない」ということでした。それは今も教訓のように身に染み込んでいます。

良寛和尚は22歳のときに備中玉島の円通寺に歩いて修行に行ったと聞き、地図を見て、随分と遠くまでいったものだと感心したものですが、考えてみれば江戸時代には歩いていくしかなかったので当然のことです。

地図で調べたら700km以上の距離で、1日の半分を歩いたとしても14日はかかります。実際には20日以上だったと思います。岡山県は遠いという記憶だったのですが、東京に住んでいて全道府県を訪れている中で、移住前に15回も足を運んだのは岡山県だけでした。子どものときの遠いという記憶の土地に住むことになるとは思いもしないことでした。

物心がついた時期に親元を離れ、やっとできた近所の友達と離れて、親の転勤先で小学校に入学して、4年生のときには都市部の小学校に転校、5年生のときに田園地域の小学校に転校して中学1年生までいました。その後は新潟県内でも150km以上も移動して中学卒業までいました。

その後は親元を離れて父親の出身地の柏崎市(今は原子力発電所の街)の高校で学び、東京の大学に行き、それから岡山に移住するまで44年間、大都会暮らしをしていました。

高校までの同窓生との付き合いはまったくといってよいほどなくて、大学の友人もサークル仲間と今はLINEグループでつながっているくらいです。

行った先々で修行のように地域に慣れて新たな知人を作っていくのが当たり前の生活でした。岡山では移住後の2年半は狭い地域で限られた人とだけの仕事で、その後は最近まで岡山市の東側だけの活動で、これから新たな人脈を本格的に作り上げていく時期になりました。そのタイミングで、倫理を学び、新たなお付き合いが始まりました。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕