偽る脳力43 きっかけは松之山事件

新潟県出雲崎町の母親の実家の寺で生まれた私は、時期を置かずに警察官の父親の勤務地の松之山町(新潟県南の山奥)で3歳まで暮らした後、再び出雲崎町の寺で3年間、親元を離れて祖父母と暮らすことになりました。

弟が生まれて、母親も仕事を手伝う環境にあったために、2人を育てるのは難しかったからというのが表向きの理由です。

私が2歳のときに、警察の事件としてはあまりにも有名な松之山事件が起こりました。松之山は、坂口安吾の推理小説「不連続殺人事件」の舞台となったところです。

松之山温泉から奥に進んだ駐在所の新人巡査が住民3人を射殺する事件が起こりました。これをきっかけに、新人、独身者は駐在所に勤務させないことになったといいます。

父は現場に最も近いところにいたことから、その駐在所に向かったところ、すでに巡査は自殺していました。その時代の警察の最大の不祥事ということで、後任配置について相当に検討されたということでしたが、父が現場地域も知っていることから、その事件現場の駐在所に家族で転勤することになりました。

警察官が通るだけで子どもは泣き出す、住民も避けるようになっている中での勤務と子育ては大変だったということで、私は母の実家に預けられることになりました。子ども心にも親元を離れることが寂しいと言えるような雰囲気ではありませんでした。

出雲崎は遠景に佐渡島が見えるところで、江戸時代には佐渡金山からの積み入れ港でした。出身の著名人といえば、たった一人で、それは良寛和尚です。幼いときには地元の良寛牛乳と漁師町の魚、そして仏様の供物のお下がりで育つことができました。

住職の祖父から、よく言われていたのは「供物のお下がりで生きているので贅沢は言ってはいけない」ということでした。それは今も教訓のように身に染み込んでいます。

良寛和尚は22歳のときに備中玉島の円通寺に歩いて修行に行ったと聞き、地図を見て、随分と遠くまでいったものだと感心したものですが、考えてみれば江戸時代には歩いていくしかなかったので当然のことです。

物心がついた時期に親元を離れ、やっとできた近所の友達と離れて、親の転勤先で小学校に入学して、4年生のときには都市部の小学校に転校、5年生のときに田園地域の小学校に転校して中学1年生までいました。その後は新潟県内でも150km以上も移動して中学卒業まで家族と一緒でした。

その後は親元を離れて父親の出身地の柏崎市(今は原子力発電所の街)の高校で学び、東京の大学で学び、それから岡山に移住するまで44年間、大都会暮らしをしていました。

親戚づきあいもなく、ずっと一人で暮らしてきたようなものだったこともあって、行く先々で人脈を作り、それを大切にするという今の形は、そのときから身についた行動と感じています。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕