偽る脳力44 生き地獄は当たり前の感覚

浄土真宗には地獄が存在しないということは、幼いときに親元を離れて暮らしていた母の実家の寺で、祖父母から聞かされていました。

寂しい気持ちに、死を連想させる環境もあって、地獄を恐れるようなことがないようにという気づかいかと幼心にも感じていましたが、地獄がないというのは本当なのだと気づいたのは他の宗派の寺に用事があって行ったときでした。

行った先の寺では地獄絵図が掲げられているか、子どもが目にする絵本でも地獄が描かれていました。説法でも地獄に落されないように善行を積むことの大切さが繰り返し伝えられていたことを覚えています。

その話を他宗の説法で聞いたときに、よくわからないまま違和感だけを感じたものでした。また、他宗の四十九日では閻魔大王に地獄行きの裁きを下されないように、一生懸命に皆でお参りをするという場面にも違和感がありました。

他宗の地獄には閻魔十王がいて、七日ごとに裁判が行われています。宗派によって違いはあるのですが、それぞれの王によって6回の裁判が行われ、7回目の裁判である四十九日に最終的な極楽行きか地獄行きかの最後の審判が行われるというものです。

このことを頭の中で整理できたのは、大学で毎日のように通っていた図書館の東洋哲学の書庫で多くの専門書を目にする機会を得ることができたからです。

浄土真宗には地獄が存在していないのに、四十九日の法要は行われていました。これはお布施をいただくための方便かとも思っていたのですが、法要の区切りの日、生前を偲ぶ日という位置づけで、必死のお参りではありませんでした。

今を生きている人は誰も地獄を経験していないのに、その恐ろしさを話す人と、それを受け入れて善行を積もうという人の両方に、事実と違うことを受け入れる能力があることを感じたのが、今の「偽る脳力」を考えるきっかけだったのかもしれません。

大人になってから、自分の現状を「生き地獄」だと言う人には数えきれないほど会いました。誰も地獄を経験していないことで、何と比較しているのかはわからないので、それぞれの地獄の苦しみのレベルが判断できないところですが、「地獄のような」と表現される経験は何度も繰り返されてきたのは事実でしょう。

浄土真宗では亡くなってから地獄に行くことはないので、地獄のような経験をするとしたら生きている間しかありません。そう考えると、「“生き地獄”は当たり前の世界」というのは、それこそ当たり前のことなので、生き地獄に嘆くのではなく、極楽を目指して前進していくことを親鸞聖人は示してくれたということを伝えています。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕