偽る脳力45 地獄は自業自得の苦しみ

浄土真宗には地獄は存在しないのですが、地獄があるとしたら、それは生きている現世に存在していることになります。親鸞聖人の教えの中に「じごく」という言葉は出てこないわけではなくて、別の感じで書かれています。それは「自業苦」です。

これは前に書いたことの繰り返しになりますが、自業自得の自業で、自分が行ってきたことによって苦しむのは「自業苦」だとされています。これは何も悪いことや失敗をしたことを指しているだけではなく、自ら行ったことが結果として現れているということで、よいことをしても苦しむことがあります。

よい生活をしている人が今の生活を崩したくない、もっとよい生活をしたいと望み、それがかなえられないこと、思ったよりも歩みが鈍いことを苦しみのように感じることがあります。これも自業苦となります。

この苦しみを、楽に変える生活ができれば、業の苦が楽になるということで「業苦楽」(ごくらく)となります。自業苦がなければ業苦楽もない、つまり苦しみを感じて自分を変えることができた人は、すべて極楽に行ける極楽往生という発想です。

しかし、誰でも極楽に行ける、念仏を唱えるだけで極楽に行けるということではありません。阿弥陀如来に信心をすることで極楽に行くことができるということです。そのために地獄という概念がないので、一生懸命に信心しないと「地獄に落ちる」ということもありません。地獄に落ちたくなければ善行を積めばよい、と言って苦行や、苦行がわりの金品を求めるということもありません。

亡くなった人の魂は、この世に残っているわけではないので、お墓は祖先を偲ぶ場であって、そこで祈りを捧げると魂が現世に戻ってくることもありません。お盆は他宗では迎え火と送り火が行われますが、浄土真宗では送り火も迎え火もなく、お盆に行われていることも他宗と比較するまでは知りませんでした。お盆に墓参りをすることはあっても、これも故人や祖先を偲ぶために行くだけです。

現世で業苦楽(極楽)を感じることができれば、亡くなったときに即座に自動的に極楽浄土に行けるわけで、閻魔大王のお裁きを受けることもない、そもそも裁判が行われる冥土に行くこともないわけです。

自業苦を経験しなければ業苦楽もないということであれば、「苦しむことは修行のうち」と考えられることもあります。これにも異論があって、浄土真宗では苦行も坐禅もありません。

「自業苦」を経験しなければ絶対に極楽に行くことがないということではなくて、「自業苦」を感じた人であっても極楽に行くことができるということですが、この説明は他宗の方には理解しにくいことのようです。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕