葬儀屋のふりをして葬儀の手伝いをしたことがあります。葬儀の当日はタイムスケジュールに従って進めるだけなので他人が入り込む必要はないのですが、通夜に手伝いに行ったときには、いろいろと気になるところがあると放っておけなくて、手を出してしまうところがあります。
あまりに手際よく準備を進めていると、遺族や親族、参列者などから葬儀屋と間違えられることがあり、いちいち否定するのは面倒なので、声をかけてきた人に調子を合わせることもありました。
葬儀屋は以前から人手不足の業界で、葬儀のときだけ手伝いにくるバイトスタッフも増えていたので、案外と違和感なく、周囲に溶け込むように手伝いをしていました。
生まれたのが寺で葬式に慣れていただけでなく、大学で仏教を学んでいる中で、他の宗派との付き合いが始まり、葬儀の違いも知っていたので、どんな宗派であっても間違えることなく対応することができるようになっていました。
知り合いの方や家族が急逝されたときには、葬儀屋の手配が遅れて、到着するまでは何をしてよいのかわからないという場面もあり、そんなときには葬儀屋の仕事を邪魔しない程度に準備をしたこともありました。
葬儀会社も忙しく、すべての宗教の詳細な部分を知らないまま現場に出ているスタッフもいるだけに、不足している部分を補うのは喜ばれることもありました。若いときには葬儀屋にスカウトされたことは何度もありました。
葬儀屋のリーダーは全体の流れを見て、スムーズに進行するようにしなければならないところですが、どうしても目の前の重要なことに気を取られたり、緊急に対応しなければいけないことがあると全体が見られなくなることもあります。そんな状況になったときには、勝手に全体を見ることをして、気づいたことはサブスタッフに声をかけていました。
さすがに手を出すようなことは、よほどの知り合いの葬式でなければしなかったのですが、1回だけ手を出したことがあります。それは大事な参列者があって受付の人が案内して席を離れたときで、香典が入った紙袋が置かれたままだったので、万が一のことを考えて、受付の代わりをしました。
全体を見る癖がついたのは、寺で暮らしていたときのことで、親戚の孫の中でもメインの役割は内孫(母の姉の子)がやるので、外孫の私はサブの役割として外側にいて、全体に気配りをすることを子どもながらにやっていました。
葬儀屋に間違われるのは、一生懸命に取り組んでいたからで、その場に馴染んで、自分の立場を変えるという、これも偽る脳力を鍛えることになったかと考えています。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕