地獄のような苦しみは自分で作り出しているのではないか、という考えから前回(健康思想3)、「“自業苦”の苦しみ」という話を書きました。
自分がやってきた結果である自業自得が“自業苦”(じごく)を作り出しているとしたら、地獄の対局にある極楽も自分が作り出すことができるのではないか、という考えから、“業苦楽”について考えていくこととします。
“業苦楽”は自業の業(ごう)によって生じた苦(く)が楽(らく)になるということを指していて、続けて「ごくらく」と読みます。これは洒落(しゃれ)や言葉遊びではなく、浄土真宗の開祖の親鸞聖人の残した言葉です。
“自業苦”は自業によって生じた地獄の苦しみであって、これに対して極楽の楽しみも自業によって生じるという単純なことではありません。自業が苦と楽に枝分かれするということではなくて、自業の後に苦があり、それを経て最上の楽があるという流れです(自業→苦→楽)。
これが“業苦楽”になるわけですが、浄土真宗は他の宗派と違って、死後の地獄は存在していません。死んだら誰もが極楽浄土に行くことができるという考えで、存在していない地獄を恐れることはないのです。
誰もが極楽に行けるので、地獄に堕ちないように善行を積むことが求められることはなく、地獄行きか極楽行きかの閻魔大王による裁判もありません。閻魔大王の裁判は死んでから49日目に行われるというのが一般的な理解です。これは7日ごとに小さな裁判があり、これが7回行われるので、最終的な判決(地獄or極楽)が下されるのは「7×7=49」の四十九日です。
この日に親戚縁者が集って、極楽行きを願うのが四十九日の法要ですが、浄土真宗では個人を偲ぶ機会として行われます。他宗のような地獄に堕とされないように必死に願う場ではないのです。
地獄のような苦しみを経験してきた人は、小さな幸せと感じるようなことにも感謝の気持ちを抱くことができるということですが、その最たるものが健康です。
健康でいるときには、ありがたさを感じないことが、健康を害して、そのために望むことができないような状態になったときに、初めて健康に感謝して、健康を与えてくれた人や健康づくりの当たり前の生活にも気づくことができるはずです。
今回のお題の「“業苦楽”の楽しみ」は、自分の望んでいることと現在の状況を並べてみて、その差が小さいほど幸せを感じるのか、苦しんだ分以上の幸せを求めることの是非を考えるための導入部分として書きました。
何のための導入部分なのか、というと、それは次回(健康思想5)のお題の「健康寿命」で明らかにしていきます。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕