偽る脳力81 考える故に我あり

考えることの重要性を伝えるために「考える故に我あり」と言うのは、フランスの哲学者のルネ・デカルトの「我思う故に我あり」をもじったもので、そのような言葉があるわけではありません。

違っているのは思うと考えるだけで、似たようなものではないかと言われることがあるものの、自分の脳力と活動を考えると、この違いは大きな影響を与え、結果も大きく違ってくると認識しています。

デカルトの有名な言葉は、マルクスの「すべてについて疑うべし」という方法的懐疑の反証として生まれたとされています。自分を含めた世界のすべてが虚偽だとしても、疑っている意識が確実であるならば、その意識している我だけは存在を疑い得ない、なぜ自分が存在しているのかと考えること自体が、自分が存在する証明であるという命題です。このような認識から、“思う”というのは“考える”ことであるとの認識をしています。

見聞きしたことを素晴らしいと感じるだけでなく、実践しなければ意味がないと言われます。しかし、思ったままに実践するのではなく、その前に考えるべきことがあり、それなしには実践したことの成否の判断ができない、思うことと実践行動の間に考えることがあるという“考え”をしています。そうでないと軸がブレることになり、ブレのためにコースが定まらないことにもなります。

ゴルフにたとえるなら、スイングの軸がブレてボールが左右に曲がっても、その原因がわからずに、打ち続けているうちに修正されていくと思い込んで、無駄な努力をしていくようなものかもしれません。

「思う」というのは直感的、情緒的なもので、一時的な思考とされています。自分の意志でコントロールできないことを指しています。これに対して「考える」は論理的、継続的な思考で、自分の意志でコントロールできるものを指しています。やりたいこと、なりたいことがあっても、考えをもって分析しておかないと実践する自分だけでなく、周囲を巻き込んで、想像とは違う結果にもなりかねません。

考えてからの行動は、考えの通りに進まないことがあった場合には、何をすればよいのかの判断がつきやすく、改善点も明確になります。そのため、リーダーにあたる人の指示も明確になるのですが、問題が起こっても指示も返答もできないということになります。

「相手のことを思う」というのは主観的なことで、「相手のことを考える」というのは客観的なことを指すという大きな違いがあります。私が着手してきたことは後者の考えに基づいてのことで、“まとまりのない思考・行動”の弊害は十指では足りないほど経験してきたことです。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕