東京から岡山に移住したのは2017年のことで、岡山に移住して2年ほどは本来の目的である介護施設の準備をしていました。ところが、オーナーのコンセプト変更で介護予防施設になり、最終的には運動設備がある娯楽施設になって、私の役割はなくなりました。
その前後から閃輝暗点が頻繁に起こるようになり、以前は5〜10分も安静にしていればモザイクが消えていたところから15分以上は続くようになり、モザイクも強く出るようになって、モザイクの下の文字は見えないという状態になりました。
岡山には移住の2年前に大手広告代理店の依頼で地方創生の仕事で来ていましたが、このときには内閣府の交付金が得られず、途中で終わっていました。
移住して自治体の担当者に挨拶に行った日に、再チャレンジすることとなり、自治体のプロポーザルの準備から始めました。
私の情報の窓口でもあった内閣府の担当者にもプッシュして、今度は交付金を獲得して、私のプロポーザルが採択されて実施することができました。
3年間の継続実施であったのに、1年目の報告書を出したときに自治体の担当者から次年度もプロポーザルを実施すると言われました。次のプロポーザルの内容は私が受託できないように条件が変更になり、結局は自治体OBが受託しました。
地方創生に私が東京で続けてきた臨床栄養と健康スポーツを活かして、岡山で生きていこうと思っていただけに、大きなショックを受けました。
閃輝暗点は1日に2〜3回であったところから回数が増え、状態が悪いときには30分も続くという状態になりました。
仕事先を発達障害児の支援に切り替え、NPO法人の設立に協力して監事になり、こちらは順調に進み、施設も増やしていきました。手がけていた支援は自閉症スペクトラム障害と注意欠如・多動性の子どもが主で、もう一つの学習障害については手付かずの状態でした。
学習障害児のための学習塾を開設したいとの相談が学習塾の経営者からあり、運営母体の一般社団法人の設立を手掛け、こちらも監事として加わりました。順調に生徒を増やしていたのですが、監査をしたところ数字が大きく合わないために調べたら、途中で月謝が元の学習塾の法人に回されていました。
糾弾することも考えたものの、子どもにとっては関係ないことで、揉め事があると発達障害がある子どもにも影響が出るからとの考えで手を引くことにしました。
その経営者との共著が発行されたものの、その原稿料は支払われず、時間泥棒をされただけでしたが、そのときには閃輝暗点は今までは出なかった午前中にも出るようになっていました。
きつい状態になるたびに状態が悪くなることから、別の道を求めて、いろいろな集まりに参加するようになった経緯があります。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕