子どものときに親元を離れて母親の実家の浄土真宗の寺院で暮らしているとき、「なぜ他の寺よりも貧しいのか」との疑問をずっと抱いていました。子ども心にも寺院は裕福という印象があって、同じ地域の他宗派の寺院に行くと、明らかに立派な建物、立派な生活(?)でした。
ご先祖様は大聖寺藩(加賀藩の支藩)の藩主の一族の出家と聞くのに、どうして貧しいのかという疑問に答えてくれたのは住職の祖父でした。
浄土真宗には地獄が存在していないために、亡くなったら全員が漏れなく極楽浄土に行くことができます。そのため地獄に落ちないように善行を積む必要もありません。
即座に極楽に行けるので、一生懸命に祈る必要もない、行うのは信心だけで、苦行もなく、自分を磨くための坐禅も瞑想もありません。
魂は極楽に行っているので、魂が墓に入っていることもなくて、お盆に墓にも家にもご先祖様の魂が帰ってくることもありません。そのために迎え火も送り火もありません。寺では盂蘭盆会もなくて、お盆の期間には阿弥陀如来に感謝する歓喜会が行われるだけです。
となると墓は必要ないはずですが、故人を偲ぶ場、親族が集う場所として存在しているだけという考えです。墓があってもお骨を入れる必要もなく、家に置いていてもよくて、散骨をしてもよいということです。
地獄がないなら極楽行きか地獄行きかの閻魔大王の裁判も存在していないので、その裁判の日に当たる四十九日に「どうか極楽浄土へ導いて下さい」と一生懸命に祈る追善供養も本来ならいらないはずです。
浄土真宗では他の宗派のような四十九日の法要が行われず、亡くなった方に感謝をする機会となっています。さらに永代供養もないので、これでは寺は稼ぐこともできません。
本来なら仏壇もなくてもよくて、位牌もほしい人だけ、さらには亡くなってからつける戒名もありません。
浄土真宗では生きている間に信心の証として本山から法名(ほうめい)を授かります。その金額も、立派な戒名をつけることに比べたら少額です。法名もシンプルで、釋○○の3文字だけです。釋はお釈迦様のことで、弟子の名前となります。
他宗にある御朱印もお守りもお札もおみくじもなくて、参拝記念の無料のスタンプがあるくらいです。小銭を稼ぐものがないということが子ども心に貧しいと感じたきっかけです。
仏教では禁じられている肉食妻帯は、浄土真宗では禁じられていません。生きていくのに食べることは必要で、また生きていくのにある程度のお金も必要です。これを得ることに感謝して暮らすのは大事ではあっても、宴会のように贅沢をするのは違います。
そんな環境で育ったから、自分の胸に感じる通りの独創的な発想で、浄土真宗の“真”の部分を追求しようと考えたところがあります。同じように考える寺院で育った人たちと大学生のときに巡り合い、時間さえあれば情報交換をしていました。その交流は数年に一度ではあっても、今も続いています。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕