家庭が仕事の場でもあるというのは、古くは当たり前のことで、農家でも商家でも職人でも住まいの中で仕事をする“職住一体”でした。私が幼いときに親元を離れて暮らした母親の実家の寺院も同様で、父親が警察官として長く勤務してきた駐在所、派出所も同様でした。
今では派出所は交番の別称にもなったのですが、以前は警察官の仕事場とドア1枚を隔てて家族が暮らしているという形でした。
これが変わってきたのは高度経済成長が始まった時代からで、その始まりの年とされる昭和30年(1955年)に私が生まれたこともあって、ずっと変化を身近に見てきました。
都市部で開発が進み、仕事も都市部で増え、都市部に移り住むか都市部に通う人が急増しました。それは自動車やバス、列車で通える範囲だけでなく、思いっきり遠くに移り住むことも始まり、その象徴的なことが夜行列車に乗っての集団就職でした。
集団就職列車の始まりは昭和29年(1954年)で、集団就職列車の最後が昭和50年(1975年)なので、20年以上も続いたわけです。
遠く離れたところへの就職でなくても、家から仕事場に通うことは国民に定着して、仕事は会社や工場にあり、そこに行かなければ仕事ができない、収入を得ることができない、生活ができないということで、通勤ラッシュが“通勤地獄”と呼ばれるほど集団で列車移動をするという生活パターンが当たり前とされる社会になりました。
地獄という呼び名については、言いたいことは山のようにあって、これについては次回(日々修行13)から数回に分けて書いていくことにしますが、なぜ地獄と感じるような通勤をしてまで、死を意識するほどの地獄のような勤務もしなければならないのかという疑問が湧き上がり、それが“職住分離”を進めていく背景となりました。
職住一体は今の時代ではリモートワークを指すことが多くなったようですが、少し前であればフリーの仕事(文筆、編集、デザイン、カメラなど)は職住一体でした。職住一体はコロナ禍の中のリモート勤務のことではないのです。
私の場合は、大学を卒業してから就職をしたことはなくて、職住一体をしていましたが、それだけでは収まりきれないことになり、職住一体を続けながらグループで仕事をする、関連する団体や企業に出向いて仕事をするといった第1の居場所(家庭)、第2の居場所(仕事場)、第3の居場所が一体化した生活をしてきました。
1995年のインターネット時代の始まりから、居場所そのものがなくても仕事も遊びも自由にできるようになりました。それでは不安を感じる帰属意識もあって、社会的な集団活動としての第4の居場所、多くの人と社会改題を解決する第5の居場所も登場するようになってきました。
その先駆けを私たちは行ってきた、もっと行動したいという気持ちが、「日々修行」のテーマに沿った活動の原動力となっています。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕