日々修行23 便利なものがなくなる感覚その2「テレビ」

子どものときには漁村や農村にいたので、地域にテレビが入ってくるのは随分と遅かったのですが、3歳を前に親元を離れて暮らした母親の実家の寺院にはテレビがあり、床間に鎮座していました。

テレビの放送が始まったのは昭和28年(1953年)2月のことでNHKだけでした。8月には民放の日本テレビの放送も始まっていたものの、見ることができるのは都市部だけで、地方はテレビ番組=NHKでした。

その後、全国キー局が誕生して、都市部にいた従兄弟はラジオ東京テレビ(後の東京放送=TBS)の名犬ラッシーの話を盛んにしていたのですが、何の話をされているのか、さっぱりわからない状態で、“取り残され感”がありました。

私が親元を離れて母親の実家の寺院で暮らし始めた昭和33年(1958年)は“三種の神器”という用語が生まれた年で、年末には東京タワー(日本電波塔)が完成して、テレビ放送の発信が始まりました。

寺院は地域の交流の場でもあったのですが、スポーツ番組や有名なドラマなどが放送される夜には、近所の人で賑わっていて、土曜日、日曜日はテレビ観戦などで宴会騒ぎであったことを幼心にも覚えています。

小学校の入学を前にして親元に戻りましたが、父親の赴任地は山奥の村で、まだテレビがある家は数えるほどで、警察の駐在所勤務の父親には望んでも無理な話でした。家の真ん中にテレビがある時期が3年も続いた後で、情報の窓口がなくなったような空虚感があり、よほどボーッとしたのでしょう。

入学式の前にはテレビが家にやってきました。白黒の画面も大きくないものでしたが、父親の実家の米屋と、母親の実家の寺院の援助でした。“テレビっ子”ではないので、それほど見ることはなかったとのことですが、当時は放送時間も限られていました。

当時の新聞のテレビ番組欄の話を、大手広告代理店のテレビ担当から、テレビ番組欄はラジオ番組欄よりも少なかった、テレビは平日には昼休み(13時から16時)があって放送されなかったと聞きました。

そのテレビ担当者とは、後に総理大臣を務めた政治家の私邸で知り合ったのですが、テレビ草創期にアメリカのホームドラマを各局に入れる窓口になっていました。(この話は別の機会に詳しく紹介します)
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕