執筆の修行というと、本格的に始まったのは大学2年生のときに、大学に近くに住まわれていた元編集者の先生(『改造』の編集長だった水島治男先生)のところに通い、作家を目指す方々に混じって、テーマに沿った原稿を書いては、見てもらうということをしていました。
水島先生は、昭和51年(1976年)には『改造社の時代』(戦前編、戦前・戦中編)を書かれましたが、これを手伝って、執筆は大変だなと感じていました。翌年には逝去され、私は葬儀の場では“最後の弟子”と紹介されたものの、そのような意識はなかったのが実際のところです。
水島先生の息子さんがクラシック音楽専門誌の編集長をされていたことから、そちらの手伝いをして、レコード会社や放送局を回り、新譜や演奏者の記事原稿を書くという仕事のほうが面白く感じていました。
短めの原稿を書くのは比較的得意なほうでした。原稿用紙に文字を埋めていくのは中学1年生になったときに、父親から原稿用紙と朝日新聞を渡されて、その日のうちに始めました。入学式の当日で、忘れもしない4月8日の私の誕生日のことです。
朝日新聞の朝刊1面には「天声人語」というコラム欄があり、世相を切り取った内容で、社説が固い文であるのに対して、軽妙な文の見本のようなものでした。当時は800文字以下(だいたい780文字前後)で、ちょうど400字詰め原稿用紙2枚に当たるので、これを書き写すのは文章の勉強にはもってこいだとされていました。
今は新聞の文字が大きくなったので、603文字になっていますが、書き写すだけでなく、要約する(200文字くらいにまとめる)、同じテーマで別の原稿を書くということも、ときどき父親の指示でやっていました。
オリジナルの執筆ではないものの、後に出版社のゴーストライターを15年も続けているときに、他人の話を聞き、その人に合った文章を書いていくということが案外と得意になったのは、父親の指示のおかげだったのかと感じることができました。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕