代筆は他の人の代わりに文章を書くことで、その人の言ったことを文章にするだけのこともあれば、すでに書かれた文章を綺麗に書き写すこと(清書)もあります。
実際には本人が書いていないのに、あたかも本人が書いているように書くのはゴーストライティングと呼ばれますが、そう呼ばれるようになったのは後に物書きを仕事としたときのことで、それについては別の機会に書かせてもらいます。
本人が書いたものをベースにして書き直すことは、よい文章にするため、書かれている真実を多くの人に正しく伝えるために実施することで、的確な用語が思い浮かばないので、ここでは“代筆”として話を進めていきます。
その代筆として初めて原稿用紙を埋めていく書き物をしたのは、父親の体験談でした。それは昭和45年(1970年)の2月1日に発生した“台湾坊主”と呼ばれる低気圧による高波の被害を受けて、「九死に一緒を得た」との文章を書きました。
台湾坊主は、台湾付近で発生した低気圧と日本海低気圧が合体して、東日本と北日本は猛烈な暴風雪と高波が発生していました。当時の新聞には“爆弾低気圧”と書かれていました。
当時は新潟県糸魚川市の中学3年生で、父親は糸魚川署(本署)に勤務していて、高波の被害を受けている海岸近くで避難誘導をしていました。10m近くの高波が発生して、海岸護岸が3kmにわたって決壊して、50軒が避難しました。
父親は住民を避難させた後に、自身が高波から逃れようとしていると、高波によって巻き上げられた砂に埋もれて、その上にテトラポッドが乗るという状態になりましたが、自力で地面まで出て、なんとか生還しました。
このことを知らせにきたのは警察署長でした。怪我や重傷であれば直属の上司がくるのが普通のことで、日曜日だったのに警察署長がきたということで、「このときばかりは覚悟した」と母親が後に話していました。
警察署長は、たまたま父親の従兄弟が務めていたので、自分の口から伝えよう、運び込まれた病院に案内しようということで来てくれたとのことでした。
このときの出来事を市の広報誌に数回(確か3回だった)書くことになり、原稿用紙(400字詰め)で各3枚(合計9枚のはず)でしたが、市民に広く知られる文章ということで、何度も書き直しをしていました。
父親から「私も市民の一人なのだから」と言われて、原稿を読むことになりました。初めは添削のつもりでしたが、朝日新聞のコラムの天声人語を自分なりに書き直すということを中学1年生のときから毎日続けてきていたので、その延長で父親の原稿を直してみました。
それを父親が清書のように書き直すという共同作業でしたが、今にして思うと、これが後々のゴーストライターの書籍184冊につながる初めての原稿書きだったようです。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕