1995年は、私にとっては記憶に残る年であり、その年にあったことは後々の行動にとっても影響を与えるきっかけでもありました。1995年は阪神・淡路大震災が発生した年であり、その後に出会った方々の中には、震災によって運命が変わった人も複数いました。
それまで続けてきた仕事を辞めなければならなかった人、仕事を変えたいと願っていたのを決断させるきっかけとなった人、社会貢献に目覚めた人、社会貢献を売り物にして新たな(あまり褒められたことではない)仕事を始めた人、頑張っても地震によって一瞬にしてすべてを失われることを知って頑張ることをやめた人などなど、大きな被害があるほど多くの人に大きな変化を与えることに気づかされました。
私が地震の被害の恐ろしさを初めて知ったのは1964年(昭和39年)の新潟地震でした。その当時は新潟県の山奥の村の小学校に通っていて、最大の被害があった新潟市とは約85kmの距離があったので、新潟市の震度5の揺れは実感することはなかったのですが、何度か渡ったことがある信濃川にかかる万代大橋が落ちたシーンをテレビで見て、その恐ろしさを感じたものです。
その記憶があったので、高校時代に東京の大学で学ぶことを決めたときに、東京の震災への不安がありました。上京してからは、どこを歩いていても、もしも地震が起きたとしたら、どうやって身を守ればよいかということを常に考えているような心配をしていました。
1995年1月17日に起こった阪神・淡路大震災では、遠く離れていたことから寄付をすることくらいしかできなかったのですが、たまたま栄養と運動による健康づくりの研究活動をしていたので、支援をする団体への情報支援を行っていました。
また、インターネットの草創期の仕事をしていて、Windows95の登場(11月23日)を前にして、ネット通信による社会基盤の構築には地震対策が重要であるとミーティングの機会で常に話していたことを今でも覚えています。
実質の被災支援は、関係先に呼びかけて寄付をまとめたことくらいしたが、その行動は自分の実家や親戚、知人などに戻ってくることになりました。
2004年に新潟県中越地震が発生しました。川口町(現在は長岡市)の直下で発生して、震度7は阪神・淡路大震災に次ぐ当時の観測史上2回目でした。私の実家の柏崎市とは37kmの距離で、柏崎市が震度6でしたが、大きな被害報道もなく、報道で知ったときにも、それほどの心配はしていませんでした。
ところが、弟が出張の帰りで高速道路の川口町を通過中に発生して、1日近く高速道路の中にいて、何度も余震で揺れ続けるという経験をしたことを聞きました。家に戻ってからも、2〜3日は、ずっと揺れ続けている感覚だったということも聞きました。
柏崎市の近くが震源地の新潟県中越沖地震が発生したのは2007年のことでした。震度6は中越地震と同程度だったのですが、震源地に近いということで、柏崎市では最終的に全壊1109棟、半壊4505棟という被害でした。
地震発生の第一報の直後に放送局の知人に連絡をして被害情報を確認しました。というのは、通信網が分断され、携帯電話もつながらず、地元から情報を得ることは不可能だったからです。
当日の夜の報道番組(全国放送)で、柏崎市からの中継があることを聞きました。最も倒壊被害が大きかった家の前での中継ということで、中継の時間を待ちました。テレビ画面に映ったのは私の実家でした。
私の記憶にあった家の姿はなく、一瞬絶望感に襲われたのですが、地域の住民として映し出された画面には私の家族が映し出され、そこで初めて全員が無事であったことを確認することができました。
実家は以前は米屋で、大きな母屋と蔵が自慢でした。その蔵の中には私の子どものときから社会人になってからの記録も収められていたのですが、それは全滅しました。過去の記録がなくなったことから、自分の記憶に残す作業を始めました。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕