2007年の新潟県中越沖地震は実家のある柏崎市が最大の被害を受け、震災後に必ずと言っていいほど実家の前でテレビの中継があったので、毎日、朝昼晩と安否を確認することができました。それは実家が市の中心街で最も被害を受けた建物だったからです。
たまたま弟が地元の損害保険会社の社長で、的確な保険をかけていたので、震災前の状態に戻すことはできました。損害保険の調査で、会社は歩いて3分のところにあるのに、弟は10日も家に戻れなかったという状況でした。
地震の被災地に送られてくる物品はありがたいものではあっても、それが住民の作業を増やし、かえって大変な思いをさせることは、話としては知っていましたが、家族・親戚を含めて知っている人の実際の話を聞いて、今さらながら確認したところがありました。
被災地の支援は、できるだけ長く続いてほしいところですが、次に大きな地震が起こると、そちらに関心が移って、忘れ去られることがあるのは柏崎市でも同じことがありました。そのきっかけとなったのは2011年3月11日の東日本大震災です。
柏崎市には柏崎刈羽原子力発電所があっても実際の被害は起こらなかったのですが、東日本大震災では福島第一原子力発電所の大規模被害があり、そちらに関心も支援も完全にシフトされた感覚です。
そんな中で、「私たちは忘れていない」を合言葉に、震災被災地の支援を続けているグループがあり、その方々とは以前から付き合いがあったことから、さまざまなイベントに協力させてもらいました。
その方はラーメン店の麺屋武蔵の創業者の山田雄さんです。原宿のアパレルからの転身で、魚介系(秋刀魚の煮干し)と動物系(豚骨)のダブルスープを初めて提供したことで有名で、ラーメン店グループを率いるだけでなく、食に関する仕事も多くされていました。
アパレル時代には私は原宿の住人であったためによく知っていて、麺屋武蔵が有名になってきたときには一号店の近くに私が住んでいたこともあり、また食品関係の仕事を私もしていたことから長く付き合ってきました。
その山田さんが震災被災地に初めて関わったのは新潟県中越地震(2004年)の後に麺屋武蔵のラーメンを現地で振る舞ったことでした。そして、3年後の新潟県中越沖地震では通有名ホテルやフレンチのシェフなどと連携して、「私たちは忘れていない」を掲げて毎年、現地でプロの味を楽しんでもらうイベントを開催しました。
その場所が実家の近くということで、私も参加させてもらい、東京での寄付イベントにも継続的に協力させてもらいました。
その活動は岡山に移住してからは参加できなくなっていますが、その精神は持ち続けています。その一つは、上道地域の防災マルシェの支援活動で、震災後の修行は今も続いています。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕