高校3年生のときに、地元選出の衆議院議員の田中角栄が総理大臣になりました。1972年(昭和47年)の7月7日のことで、当時は父親の実家がある新潟県柏崎市に住んでいて、祝賀の提灯行列を初めて目にしました。
内閣支持率が70%という今では信じられない人気ぶりでしたが、その結末は多くの人が知るところです。
私が生まれた1955年(昭和30年)は保守合同(自由党と日本民主党)によって自由民主党が結党された年で、「新潟県から総理大臣を」は当時からの悲願であったと聞いています。
今では、想像もつかないかもしれませんが、新潟県は豪雪地の代名詞とされる地域です。私は小学3年生のときには山奥に住んでいたので、積雪が3mを超える“三八豪雪”(昭和38年1月豪雪)を自ら経験しています。
豪雪でも生きていけるインフラ整備、中でも交通インフラとしての道路、橋、トンネルなどは強く望まれ、その最終形として高速道路と新幹線の開通は多くの県民が求める夢でもありました。
地元の英雄の誕生は、当時の私にとっては他人事で、東京の大学を目指していたので、地元以外で会うこともあるかな、という感覚でしかありませんでした。
ところが、東京に暮らすようになってから、地元の後援会の役員を務める方の息子である高校の同級生から、「父親が上京して目白の田中邸に行くので道案内してほしい」との連絡がありました。
同級生とは高校時代には一緒にバンドを組んでいて、自宅にも行って父親の顔も知っていました。そのため、上野駅で待ち合わせして、田中邸まで迷わずにいくことができました。
案内をして門前で帰るつもりでいたのですが、出迎えた秘書が息子と勘違いしたのか中まで迎え入れられて、錦鯉が泳ぐ自慢の池(テレビでしか見たことがなかった)まで案内されました。
錦鯉が以前よりも元気がないという話を聞いて、大きな池でも密飼いになっていること、水が綺麗すぎること(鯉は少し濁っている環境が合っている)、水道水を入れすぎていないかということを話しました。
この知識は、たまたま母方の叔父が県の職員で、私が高校生のときには錦鯉の育成センターの所長だったこともあって、叔父の知識の伝聞をしただけです。
そのときに、余計なことだったのですが、池の水は水道水ではなく、新潟の湧き水を運んだらよいということも話しました。何しろ、毎日のように地元の方々が県境を越えてクルマでやってきていたのですから。
それが田中議員にも伝わり、錦鯉の世話をすることになり、週に1回ほど通うことになりました。これは大学1年生から2年生の秋まで続きました。
政治的なことは関心がなかったので、錦鯉の世話のほかは来客の履き物の整理や、人手が足りないときにお茶出しの手伝いをしていただけです。これは未就学のときに、親元を離れて母親の実家の寺院で暮らしていたときの経験が活かされただけのことです。
このときの出会いが、後にテレビ業界の仕事をするときに役立つ人脈を得ることとなったのは、ある意味ではラッキーなことでした。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕