日々修行51 スポーツ専門誌は修行だったのか

スポーツは得意なほうではあったのですが、球技だけは苦手感があって、仕事として依頼がなければ、自らが喜んで行きたいような世界ではありませんでした。団体の機関誌を手掛けているときに、知り合いの編集者から手助けをしてほしいという依頼があったのが「月刊バレーボール」の増刊号の編集でした。

当時はバレーボールブームといってよい状況で、国際大会が日本で開催されることが多くて、その結果を1日でも早く発行することで販売部数が増えるというので、一時的に総動員がかけられました。

ライバルの出版社も同じように進めているので、絶対に遅れることはできないという、いつ編集部の電気が消えるのだろうという状態が、何年も続きました。編集部の机では間に合わなくて、営業部や時には役員室の机も使って、最後には近くのビジネスホテルも編集スペースになりました。

そのときに動員されたメンバーは、忙しい時期が過ぎると解散状態でしたが、なぜか私だけは通常の月刊誌の編集にも助っ人として呼ばれるようになり、作業をするのは出掛けている編集部員の机を使ってということで、室内ジプシーを経験していました。

これと並行して「月刊バスケットボール」の増刊号も手伝うようになり、月刊誌の手助けもしていましたが、「月刊テニスクラシック」が創刊され、月刊バレーボールの副編集長が編集長になったために、こちらも手伝っていました。

スポーツ専門誌といっても、バレーボールとバスケットボールはクラブ活動の関係から学校が購入することが多く、記録を小さな大会のものまで全部を掲載するということから、記録との付け合わせ、学校名、選手名と学年、大会名など一つもミスができないということで、その面倒な仕事ばかりが回されてきました。

出版社の代表はバレーボールの全国協会の役員も務めていて、それもあって全記録が入手できる状態だったのですが、その関係で大会で配布する資料の編集も回ってきました。そのうちバレーボールだけでなく、球技の各団体の仕事も回ってきて、これが本業だったらよかったのにと思うこともありました。

アルバイトのような仕事は長く続かないことはわかっていたので、球技3誌の仕事をしながら、業界誌、業界紙の仕事もして、さらにゴーストライターの仕事もしていました。

よく周り(家族や知人など)から言われていたのは、「仕事ですか、勉強ですか」ということでした。仕事で書くこと以外に文(雑誌、書籍など)を読むのは、仕事か仕事のための勉強で、少なくとも趣味で読んでいる時間はないという状態が3年間は続きました。

書籍は書店に並んだばかりのときに買っておかないと、読める状況になってから求めようとしても手に入らないということがありました。スポーツ専門誌の仕事から離れたときには、1000冊を超えるページもめくっていない書籍が積み上げられていました。この書籍の全部に目を通すことができたのは10年後のことでした。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕