日々修行140 原宿に住んでの学び

新潟県の漁師町の出雲崎町で生まれ、その後は小学3年生まで山奥で暮らした自分としては、上京して大学に通うようになってからも、きっと都会には馴染まないのだろうなと感じていたものです。

大学で知り合った原宿の自宅から通ってきている同期は、都会生まれそのものの雰囲気があり、初めて竹下通りにつれていってもらったときも、原宿駅を出た途端に足が止まるような感覚がありました。

その原宿に住むことになり、しかも19年間も暮らし、メディア業界では「原宿の小林」と呼ばれるようになることは、その当時は想像もできないことでした。吉祥寺から原宿に移動したのは27歳のとき(1982年)でした。

竹下通りを抜けて、明治通りに出て見えるビルが初めの住まいでした。その後に移動したのは竹下通りから明治通りを渡って、2本目の道を曲がって3軒目の一軒家で、いわゆる裏原宿の一角でした。

原宿地域(住所としては渋谷区神宮前)には親戚もいて、のちに親戚になる人も複数いました。その中には、のちに叔父さんと呼ぶことになる日本社会事業大学の学長を務めた社会福祉学者がいて、当時の日本社会事業大学は近所にあったので、よく行っていました。

教育関係の大学教授(日記文学の雄)、有名な産婦人科医(逆子の権威)もいましたが、そのルーツを辿っていくと新潟県・糸魚川の相馬家につながりました。相馬家の最も有名な人物は相馬御風です。

相馬御風は明治期から昭和期の日本文学者で、良寛和尚の研究者として有名です。良寛和尚は出雲崎町の出身で、私は出雲崎町で生まれたこともあって、親しみを感じていました。

その糸魚川に父親の転勤で中学生時代に転校して住むことになり、1年半を過ごしました。通学に使っていたバス停の目の前が相馬御風記念館で、よく通っていました。

相馬御風の作品として知られているのは母校の早稲田大学の校歌(京都の西北、早稲田の杜に〜)、「カチューシャの唄」(カチューシャかわいや別れのつらさ〜)、「春よ来い」(春よ来い、早く来い〜)など数々あります。

原宿の一族が相馬御風の血筋であることを知ってから、相馬御風、良寛和尚などに関心を示しましたが、これらの文献は日記文学の叔父の家(歩いて3分)に数多くあって、図書館に通うことなく学ぶことができました。

相馬御風記念館に通っていたときは、長い文章は無理でも詩なら書けるのではないか、と思っていたのですが、相馬御風の書いたものを読ませてもらい、だんだんと長文の世界にハマっていきました。

それがあったから、大手出版社で150冊のゴーストライターを続けることができたのではないか、と考えています。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕