この連載コラムのテーマの「日々修行」の修行は、修業の間違いではないか、と言われることがあります。というよりも、すでに何度も言われています。
「修業」は一定の行を習い修めることで、自分の利益のために行うことで、板前修業や花嫁修業という言葉があるように基準に達したら卒業となって資格が得られるもの、一定の成果が約束されているものに使われます。
これに対して「修行」は何物も求めることなく、利害損失を離れて行われるものです。といっても武道や仏教の世界で使われることがあり、修行僧や仏法修行、武者修行といったように、終わりのない行を修めて取り組まれるものです。
仏教的には悟りを開いた人の道を指すこともあります。修業には卒業がありますが、修行には“卒行”は存在していません。一定の段階ごとの資格が設けられていて、そこに達したと認められたときには何らかの名前や階級が与えられることはあるものの、そこで終わりということは原則的にはありません。
“原則的”と書いたのは、例えば武道であれば段位があって、剣道や柔道では十段が最高位です。十段を得た人は、すべて“悟りを開いた”状態なのかというと、実際に武道を経験して、多くの指導者に指導を受けて、その先生方が上位に上り詰めていくところを見てきて、そうではないことは実感しています。
私が経験した剣道、空手、少林寺拳法では段位を得ていますが、他に経験した柔道も逮捕術も修行をしたという感じではありませんでした。
私が、お釈迦様の誕生日とされる4月8日に生まれた寺院の宗派は浄土真宗で、他の宗派のように一般に修行とされる坐禅も滝行もありません。
食を一定期間断つことも寝ることも許されないというような苦行などは全くなくて、毎日の勤行(ごんぎょう=お勤め)くらいのものです(このようなことを言ったら、叱られることもあるかとは思うのですが)。
仏教における修行の目的は悟りを開くことなので、厳しい行為として何をしたかということではなくて、最も厳しいのは自分自身の心を安定させて、悟りに近づくことを日々続けることです。
このことは「日々修行」というタイトルを掲げて、自らがやってきたことが何であったのかを考え、常に正しい方向を見つめて、そこに向かって進んでいくことが、すなわち「修行」であるとの認識をもっています。
これが勝手な考えだとしても、常に進んでいくことは終わりがないことで、終わりがないからこそ、どんなに小さな歩みであっても一歩前を目指すことが修行との考えをしています。
修業ではないので、利益がないということで、私たちの日本メディカルダイエット支援機構は特定非営利活動法人(NPO法人)の体制をとっています。
NPOは「Non Profit Organization」の略で、「利益を得ない団体」を指しています。
生命と生活を維持するためのギリギリの金銭や食品は得たとしても、“利益”といったレベルではないので、これも修行の一つとの考えをしています。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕