コロナ禍は人の考えも変えれば、社会体制も変えようとしています。社会体制は徐々に変わっていくものというのは、これまでの常識ですが、新型コロナウイルス感染の蔓延は、その常識も変えるかもしれないという不安が積み重なります。今回のコロナ後を考えるポストコロナのテーマは「溺れる者は久しからず」で、これは「奢れる者は久からず」をもじったものというだけでなく、「溺れる者は藁をも掴む」も合体させた言葉です。
「奢れる者は久からず」は、栄華を極めて絶大な権力を握っていても、奢り(おごり)高ぶる者は長続きせず、やがては没落するという意味で、その出典となったのは平家物語の冒頭の一節にある「奢れる人も久しからず」です。地位や権利を笠に着ることなく、謙虚な態度で過ごすべきだということを言っているわけです。「溺れる者は藁をも掴む」は、困窮して万策尽きたときには、まったく頼りにならない藁(わら)のようなものにも必死にすがろうとすることですが、まさにコロナ禍を指している諺(ことわざ)です。
必死になって踠き(もがき)苦しむ中で、「頼みの綱」を掴もうとするならまだしも、掴もうとしているのが綱なのか藁なのかもわからなくなっている人がいます。冷静に考えてみれば、しっかりと掴んで身を助けてくれる綱であることも、その綱の端が、その先に長くつながっているかも判断がつくはずです。綱のつもりだったのに、それよりも細い縄だったとしても、その先が出雲大社の極太の注連縄(しめなわ)くらいの太さであったら、これは安心して掴むことができます。その判断の目を濁らせてしまっているのが、コロナ禍であり、いつまでも先が見えない状況です。
自分だけで生きているなら、どんなものを掴もうと勝手にしてもらってもよいのでしょうが、判断ミスから周囲の人まで巻き込むとなると、勝手にしてくれとは言えなくなります。コロナ禍の被害というと、ウイルス感染蔓延の直接的な被害にばかり目が行っていますが、実際にはコロナ禍で大変なことになっている人が、自分が助かろうとして周囲の人を巻き込むようなことをして、それに巻き込まれてしまった人のことは支援の対象にはされていないのです。