ポストコロナ「鬼の居ぬ間の命の選択」1

口うるさい人がいない間に気晴らしをすることは「鬼の居ぬ間の洗濯」と言われますが、なんで鬼がいないときに洗濯をしなければならないのか、鬼がいると洗濯ができないのか、よほど洗濯が重要なことなのかという疑問が湧いてくるところです。この場合の“洗濯”はランドリーやクリーニングのことではなくて、「命の洗濯」のことです。これは苦労から解放されて、命(寿命)が延びるほど存分に楽しむことを指していて、正しい言い方をするなら、「鬼の居ぬ間の命の洗濯」ということになります。
今回のコロナ後を見据えた行動のテーマは「鬼の居ぬ間の命の選択」で、“洗濯”とするところを“選択”と誤変換したわけではありません。コロナ禍での“命の選択”というと、トリアージュを思い浮かべるかと思います。トリアージュ(triage)は、選別を意味するフランス語が語源で、英語でもフランス語でも同じくtriageと書きます。
本来の意味は戦場で多数の手当てが必要な人が出たときに、手当ての順番を緊急度に従って優先順位をつけることです。これが大事故や災害の対応にも使われるようになり、災害級の出来事である新型コロナウイルス感染症の患者に使われるようになりました。
すべての患者を受け入れたくても、病床に限りがあり、病床が空いていたとしても医療スタッフに限りがあることから、この患者は受け入れられる、こちらの患者は別の病院に行ってもらうしかないという状況のときに使われました。それが逼迫度が高まるにつれて、重症患者は受け入れても中等症患者は医師が管理できる宿泊施設に行ってくれ、その後には重症化リスクが高い中等症患者でも自宅療養という名の放置になっていたことは、多くの人が承知していることです。
そのトリアージュを医療関係者が行うのではなく、電話を受けた保健所の担当者が選択を行うようになると、これは医療崩壊と呼ばれても仕方がないことです。とりあえず危機的状況が解消されたときに、“喉元過ぎれば熱さを忘れる”ではなくて、二度と医療崩壊と口にしないで済むような状態を作り出さないと、いつ自分が「命の選択」をされることになるかわからないのが感染症の急拡大の恐ろしいところです。