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テレビ局に初めて行ったのは中学1年生のときのことでしたが、それは地方局(NHK)の夕方の番組で、剣道クラブの一員として生放送で実演とインタビューを受けたことで、それは多くの人が経験するかもしれない程度のことでした。

東京にいたときに地方局で夕方のニュース番組に出演したのは納豆の全国広報で、生放送の時間に遅れて到着した大学教授の代わりにコメントしました。これは関東エリアの放送で、それを見たというディレクターの誘いで、埼玉エリアの地方局でもコメンテーターとして出演したくらいです。

もう一つは、広く食品業界の話「業界人は知っているが消費者には知られてはいけない」をテーマにした書籍を発行したときに、東京のローカルテレビ局の取材を受けました。放送されたらしいのですが、その局は契約者だけが見られるというもので、私は視聴が不可能でした。

民放の全国キー局では、専門家の代わりに免疫の話をしたくらいで、それ以外は裏方としての参加でした。番組の企画で最も多かったのは納豆PR、豆腐PR、豆乳PRでしたが、物おじせずにテレビ局のプロデューサーと立ち向かえたのは、大学生時代から民放各社に大手広告代理店や音楽情報誌などをバックにして、比較的優位な立場で出入りしていたからです。

後ろについてくれた大手広告代理店のテレビ担当部署の重鎮と知り合ったのは、私の出身地(新潟県柏崎市)が選挙区の総理大臣の東京の私邸でした。正しくは“元総理大臣”となったときで、最終的に逮捕されることになる前にメディア対策チームが集められた場でした。

私の役割は、以前にアルバイトとして私邸に行っていたときと同じ履き物整理とお茶出しくらいのはずだったのですが、文書の清書(当時はワープロも普及していなかったもので)などの用事をしているときに、親しく話す機会をもらいました。

その当時は、今の民放の報道番組やバラエティ番組のように、正義感を振りかざして“有ること無いこと”を放送するという時代ではなかったので、広告主を通じてプレッシャーをかけると伝え方のムードが変わってくるということがありました。

その効果があったのかどうかは、ここでは触れないことにしますが、この経験でプッシュすることの重要さ、プッシュする内容の重要さ、それを裏付けるエビデンスと専門家のコメントの重要さを知り、それを達成する苦しみの先にある喜びを感じる修行ができました。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕

浄土真宗の「自業苦」については、これまでも他のコラムの中で何度が取り上げてきました。私の母親の実家(新潟県出雲崎町)は浄土真宗の寺院で、私は3歳から6歳(小学校にあがる直前)まで、その寺院で暮らしていました。

上京して通った東洋大学の学祖(設立者)の井上円了先生は、新潟県来迎寺村(現在は長岡市)の浄土真宗の寺院の出身で、大学の図書館には仏教関連の書籍が、それこそ山のようにありました。

浄土真宗に関する書籍や資料も数多くあり、お寺を継ぐ身ではないので、ここしか学ぶ機会はないとの思いもあって、時間さえあれば図書館にこもっていました。初めの数冊で、浄土真宗の宗祖の親鸞聖人の教えの一つである「自業苦」(じごく)に行きつきました。

浄土真宗が他の宗派と大きく異なっているのは、地獄が存在しないことです。浄土真宗の信者は、亡くなった即座に誰もが極楽にいくことができるという教えがあります。地獄があるとしたら、それは生きている現世に存在していることになります。

そして、それは自らが行ってきた自業によって起こるもので、それは自業自得です。他の宗派であったら、自業自得は悪い行いをしてきた結果であるので、悪い結果になるということになるのかもしれませんが、そもそも自業自得は良い行いによって良いことが起こることも、悪い行いによって悪いことが起こることも意味しています。

最も悪い出来事は亡くなってから“地獄に堕ちる”ことです。そうならないように必死になって祈る、悪いことをしてきた分を取り戻して、さらに善行を積んでいくということが説かれる宗教・宗派がほとんどかと思います。

これに対して、浄土真宗には地獄が存在していないので(私が育った寺院には他の宗派で目にした地獄絵はなかった)、亡くなって地獄に行くことはありません。浄土真宗の門徒(信者)が行く先は全員が極楽です。

浄土真宗には亡くなってからの地獄はないわけですが、先に書いた現世に存在しているのは何かというと、これが自業によって苦しむことで、これを「自業苦」と書いて「じごく」と読み、地獄と同様の苦しみの状態を指しています。

では、どのようなことが自業苦の苦しみになるのかは次回(業苦楽3)に続きます。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕

健康情報を学問として研究して、現状の健康情報を正し、正しい健康情報の見本を示していくことを目指して「健康情報学会」の設立を進めていたことについては前回(健康情報学2)で紹介しました。

「健康情報学」というメーミングでの活動を研究会で行っていたときには、賛同者も多く、また邪魔が入ることもなかったので、研究会を“学会”に変えることも大丈夫との感覚でいました。

ところが、“学会”の名称にすることを趣意書にして持ち回った途端に横やりが入るようになりました。これは想定外の出来事でした。

「情報学会」というネーミングは一時期、医学系の学会の流行りとなった時期がありました。一つの学術分野で先行した学会があって、そこから分裂なり独立するときには、臨床○○学会、小児○○学会、老年○○学会、○○研究学会、基礎○○学会などの名称がつけられることが多かったのですが、そこに加わったのが○○情報学会でした。

それぞれの専門分野で、研究活動をしている専門家の活動は、そのまま続けていただき、その専門分野を取り巻く情報を学問として扱い、連携をして研究を進めていこうというのが、活動の主旨でした。

また、既存の学会は医師や研究者が主なメンバーとなっていましたが、情報学会になると一定の世界の学識者の集まりという性格が強くなります。例えば、病名を冠した情報学会の会員は医師や看護師、薬剤師、検査技師などの診断や治療に直接関わる専門家ではあるものの、管理栄養士や理学療法士などの治療・改善に関わる専門家も入会できるところのようになります。

こういった認識から、さまざまな健康に関わる学識者が集まって、正しい情報を正しく伝えることを学問として実施するつもりで、今でいうリテラシーの向上を目指していました。

そこに邪魔が入って、健康情報学会として進められなくなった事情については次回(健康情報学4)に書くことにします。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕

発達障害の学習障害は、読む・書く・計算することに困難さがある状態を指していますが、その改善のための基本となるのは学習技能の向上です。

椅子に座って学ぶことから、まずは正しい姿勢で座ることが求められます。

学習障害は、数字が正しく書けない、鉛筆で線がまっすぐに引けない、文字(ひらがな、カタカナ、漢字)が見たとおりに書けないといったことが着目されることが多いことから、それを改善しようと目先の指導をしがちになります。

それは大切なことではあるものの、それだけではないというのが学習障害の改善に取り組むときの大事な方針とされています。

子どもの成長を学習面から見ていくと、身体機能と認知機能がベースとなり、その上に学業技能があり、その裏付けがあって初めて学力を身につけることができるという流れになっています。

学習技能は手の動き、指の動きを正確に行うための機能で、脳が文字を正しく認識できたとしても、それを書き写すときに思ったように指先が動かせないのでは、鉛筆を正しく持つこともできなければ、正しく動かすこともできなくなってしまいます。

その技能を身につけるためには、姿勢が整えられていることが必要となります。

椅子に正しく座って、机に正しく向かい、姿勢も正して、腕から指先までのポジションを整えるのが基本となるわけですが、実際に机に向かっている子どもを観察すると、初めの段階の正しく座ることができない子どもが増えています。

まっすぐに座ることができない、座れても長く姿勢が保てない、じっとしていることが苦痛に感じる、そもそも椅子の座面がお尻とフィットしていないと感じて腰が動いてしまうということが、発達障害では起こりやすくなっています。

まっすぐに座るためには筋肉の強さも必要であり、それに加えて姿勢を保つための身体のバランス感覚も必要となってきます。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕

「伊達のあんぽ柿の日」ふくしま未来農業協同組合が、あんぽ柿の最盛期が冬で、普及に携わったのが13人であったこと、発祥地の福島県伊達市梁川町五十沢(いさざわ)の13(いさ)にちなんで12月13日、1月13日、2月13日を制定。

毎月13日:「一汁一菜の日」(一汁一菜ぷらす・みらいご飯)、「お父さんの日」(ヤクルト本社)、「登山の日」(ICI石井スポーツ)

「支援する人を支援する」という言葉は心に響きやすいキーワードになりやすくて、支援が必要な人を直接的に支援することはできなくても、直接的に支援をする人を支援して、間接的に支援をするということなら自分にもできることがある、と考える人も多く存在しています。

日本メディカルダイエット支援機構は臨床栄養から活動を始めたこともあり、病院の食事から介護施設の食事なども研究してきただけに、食事の面での間接的な支援を求められることが多くなっています。

安全な方法、衛生的な方法、効率的な方法、支援を受ける人(患者や要支援者)と支援する人(看護師や介護士など)の健康づくりなどの提供の要請を受けると、これに対して“使える”ノウハウをしてきました。

支援する側にも予算の問題があることは充分に承知しているものの、私たちの活動はボランティアではありません。「支援する人を支援するのはよいとしても、その私を誰が支援するのか」ということを、支援に関わるセミナーなどで追加的な感じで話をさせてもらっています。

私を支援するというのは、支援をした人(介護士など)や組織(社会福祉法人など)からのリターン、私を支援して社会活動を進めようという人(善意の間接ボランティアなど)の利益ということになります。

善意での支援は推奨されることであり、褒め称えられることではあるとしても、短期間で終わったのでは意味がありません。何もされなかったことよりも、よい状態を経験してから、また前の状態になったときのほうがガッカリ感は強くなると感じています。実際に、そのような経験をした方は多くいます。

「一時で終わる善意の支援はしないほうがいい」と言うつもりはないのですが、よいことを計画するときには、いかにして継続させるか、徐々にレベルを高めていくためには何をすればよいのかということも考えておく必要があります。

それもあって、あえて「私を誰が支援するのか」ということを口にするようにしているのです。さらに話が進むと、「私を支援する人を誰が支援するのか」という発想が出てきます。それに対しては、まだ完全な解答はないと感じているところですが、「今のところは私が支援する」という共助のような話をしています。

資金面の支援に対して、資金面で支援することはできないので、情報や講習というレベルですが、それがもう一段階レベルアップする機会は近いうちに訪れます。そう信じて、支援してくれる方には「ギブ&ギブ&ギブ=テイク」の精神で応えています。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕

言い間違いは、単に言葉の意味を理解していないというだけでなくて、わざと間違って使っているグループもあります。どのようなグループなのかということは、徐々に明らかにしていくとして、同じ言葉が通じる仲間の見極めとして使われています。

今回のお題の「足元を掬われる」は言い間違いの代表的なもので、中には「信じる者は足元を掬われる」と飛躍した使い方をしている人もいました。これは「信じる者は救われる」と「足を掬われる」が混同した例です。

「信じる者は救われる」は聖書に出てくる言葉で、神を信じて、その教えに従う者が救済や救いを得るという意味で使われます。その有名な言葉の“救われる” と“掬われる”が同じ読み方の「すくわれる」であるところから「信じる者は足元を掬われる」となったわけです。

「足を掬われる」は、足を掬う(相手の隙につけ入り、相手の失敗や負けに導くこと)の受け身での使い方で、「何かを試みているときに不意をついて邪魔をされる」ということを表しています。

「国語に関する世論調査」(文化庁)では、「足をすくわれる」と「足下をすくわれる」の、どちらの言い方を使うかを聞いていますが、本来の使い方の「足をすくわれる」を使う人は、本来の意味ではない「足下をすくわれる」を使う人のほうが多くなっていました。

調査年によって違いはあるものの、最も開きがあった調査では4.4倍にもなっています。

このようなことが起こるのは、「足下を見られる」「足下につけこまれる」「足下に火が付く」などと混同したものと考えられています。

足元でも足下でも不意をついて邪魔をされないように、新たなことを始めようとするときには、念には念を入れて、すべての出来事を想定して、どれに対しても対応できるように準備をしておくことが必要という戒めとして、正しい使い方と誤用を取り上げました。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕

日本人の死因の調査結果を見ると、2023年(令和5年)の日本人の死亡原因はがん、心疾患(心臓病)、老衰、脳血管疾患、肺炎の順となっています。

以前は、がん、心疾患、脳血管疾患が多くを占めていて、高齢化が進むほど死亡原因として肺炎が徐々に増えていくのに、老衰が少ないのは、病気で亡くなる人が多いからだと言われていました。

2000年ころまでは老衰は7位でしたが、一気に増えてきました。その大きな要因は確かに超高齢社会にあるものの、トップ3に入るようになったのは死因の的確化、見直しが行われるようになったからです。

老衰は、高齢者で他に記載すべき死亡原因がないことを指していて、自然死の場合に使われる用語です。これを厚生労働省も定義として用いていて、医師向けの「死亡診断書記入マニュアル」にも明記しています。

老衰は全体的には増えているものの、大学病院や総合病院では、それほど増えてはいません。その理由として、これらの医療機関は重度の患者が多く、がん、心疾患、脳血管疾患で亡くなる人が多いからだと説明されてきたところがあります。

死亡診断書には病名を書くのが当たり前のことで、老衰は病名ではないので書くべきではないという考えが医師にはあります。また、病名を突き止めて、その治療に果敢に挑戦するのが医師の役割という考えも強くあります。

老衰と記入するのは医師としての敗北と考える人もいて、老衰だとわかっていても心不全と書く医師も少なくありません。確かに、最後は心臓が止まって亡くなるので、心不全と言えなくもないのですが、高齢者の場合には高血圧や糖尿病の基礎疾患がある人が多く、血管の老化から心疾患、脳血管疾患で亡くなる人も多くなっています。

どれが原因なのか死因を特定するのが難しい場合が増えてきたことから、老衰が増えてきていることは事実です。

私も家族が亡くなったときに、医師から「多くの疾患があって、どれを死因としてよいかわからない」「心不全と老衰のどちらがよいか」と聞かれて、返答に迷った経験があります。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕

よく歩くようになると便通がよくなることを感じている人が多くて、ウォーキングの健康効果について話をすると、その理由を聞かれることがあります。

それについて運動科学の専門家が、左右の足を交互に前に出すことによって、腰が捩れるようになり、そのために腸がマッサージされるようになると話していました。その専門家と一緒のセミナーで話すことになり、私は専門家の後に登場しました。

そのときに話したのは、腸のマッサージ効果に加えて、「腸の血流がよくなる」ということでした。ウォーキングに限らず、運動をすることによって血流がよくなると、温かな血液が末端の毛細血管まで勢いよく運ばれるようになります。そして、腸が温められます。

腸内細菌の善玉菌は、温かな温度の環境で活性化して増床するので、善玉菌による変化(便が増える、便が軟らかくなるなど)が起こるようになります。有酸素運動は、全身に届けられる酸素が増えることで、細胞の中でエネルギー代謝が盛んになり、ますます腸内は温まるようになります。

全身で発生するエネルギーのうち半分ほどは体熱の維持に使われています。ということは、エネルギー発生量が多いほど、身体は温まるようになります。

これを論拠とすると、“マッサージ効果”が薄れてしまうことになるので、セミナーなどでは両方の効果によって便通がよくなるという話をするようにしています。

早歩きを短時間だけしても、ゆっくりと長めに歩いても腸の捩れの回数は変わらないということもあります。適度な速度(いわゆるスタスタ歩き)で歩くと、酸素の吸い込む量が増えて、エネルギー代謝がよくなります。

両方のよさを上手に使うには、必死に歩いて苦しい思いをするわけではなく、かといってダラダラと歩くのではなくて、元気に歩くこと(一緒に歩いている人と会話をしながら続けられる早さ)で歩くことをすすめています。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕

「いいにんじんの日」韓国人蔘公社ジャパン(東京都新宿区)が、い(1)い(1)に(2)んじんの語呂合わせで制定。

毎月12日:「パンの日」(パン食普及協議会)、「育児の日」(神戸新聞社)