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過度に加工された超加工食品の健康リスクは、前回(素食のすすめ10)の身体機能へのリスクだけでなく、脳への影響についても多くの研究成果・論文として報告されています。

超加工食品を多く含む食品の摂取は、うつ病のリスクが44%、不安障害のリスクが48%も高くするとの研究成果があります。

これは海外のデータで、調査対象に日本人は含まれていないのですが、ブラジルの追跡調査では、総摂取エネルギー量の20%以上を超加工食品から摂取する人は、全般的な認知機能が28%早く低下したと報告されています。

また、イギリスでの追跡調査では、超加工食品の摂取量が10%増えるごとに認知症のリスクが25%上昇していたといいます。
超加工食品は、工業的な製造過程を経て作られ、多くの添加物が含まれた食品を指していて、ポテトチップス、菓子パン、カップ麺、冷凍ピザ、クッキー、ビスケットなどが該当しています。

これらの食品の過剰摂取は、これまでは糖質、脂質、塩分の摂りすぎによって生活習慣病(高血圧症、糖尿病、心臓病)や慢性炎症とのつながりが指摘されてきていました。これらの疾患は血管に影響を与え、脳の血流にも影響を与えることから、血管性認知症のリスクを高めることが知られています。

認知症は血管性認知症と、脳細胞が萎縮するアルツハイマー型認知症に大きく分けられます。アルツハイマー型認知症は、脳の血流の低下が少なければ発症しにくいことも知られていることから、両タイプの認知症のリスクが高まることになります。

人間の脳は、高エネルギー量の食品をおいしく感じるように進化してきました。これは低栄養時代が長く続いてきた結果とされていますが、通常の食品(いわゆる素食)は糖質か脂質の、どちらかが多いものが普通でした。

ところが、超加工食品は糖質と脂質がともに多く含まれるという自然界にはない食品であって、そのために、「やめられない、止まらない」という状態になりかねない危険性があります。

さらに中毒性を引き起こしやすい塩分、人工甘味料、食品添加物の色素などが加わると、食欲を抑えられなくなる中毒性が非常に高い食品といえます。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕

「網膜の日」日本網膜色素変性症協会が網膜色素変性症の普及のために制定。

「長野県ぶどうの日」全国農業協同組合連合会長野県本部(JA全農長野)が9月下旬が長野県産のぶどうの出荷ピーク時期で、房=ふさ(23)の語呂合わせで制定。

「おいしい小麦粉の日」富澤商店が小麦を使用するパンが日本に伝来した1543年9月23日の鉄砲伝来の時だとの説から制定。

毎月23日:「乳酸菌の日」(カゴメ)、「不眠の日」(エスエス製薬)、「国産小ねぎ消費拡大の日」(小ねぎ生産県協議会)

執筆の修行というと、本格的に始まったのは大学2年生のときに、大学に近くに住まわれていた元編集者の先生(『改造』の編集長だった水島治男先生)のところに通い、作家を目指す方々に混じって、テーマに沿った原稿を書いては、見てもらうということをしていました。

水島先生は、昭和51年(1976年)には『改造社の時代』(戦前編、戦前・戦中編)を書かれましたが、これを手伝って、執筆は大変だなと感じていました。翌年には逝去され、私は葬儀の場では“最後の弟子”と紹介されたものの、そのような意識はなかったのが実際のところです。

水島先生の息子さんがクラシック音楽専門誌の編集長をされていたことから、そちらの手伝いをして、レコード会社や放送局を回り、新譜や演奏者の記事原稿を書くという仕事のほうが面白く感じていました。

短めの原稿を書くのは比較的得意なほうでした。原稿用紙に文字を埋めていくのは中学1年生になったときに、父親から原稿用紙と朝日新聞を渡されて、その日のうちに始めました。入学式の当日で、忘れもしない4月8日の私の誕生日のことです。

朝日新聞の朝刊1面には「天声人語」というコラム欄があり、世相を切り取った内容で、社説が固い文であるのに対して、軽妙な文の見本のようなものでした。当時は800文字以下(だいたい780文字前後)で、ちょうど400字詰め原稿用紙2枚に当たるので、これを書き写すのは文章の勉強にはもってこいだとされていました。

今は新聞の文字が大きくなったので、603文字になっていますが、書き写すだけでなく、要約する(200文字くらいにまとめる)、同じテーマで別の原稿を書くということも、ときどき父親の指示でやっていました。

オリジナルの執筆ではないものの、後に出版社のゴーストライターを15年も続けているときに、他人の話を聞き、その人に合った文章を書いていくということが案外と得意になったのは、父親の指示のおかげだったのかと感じることができました。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕

腸内細菌の悪玉菌が増えると、腸内の腐敗が進むようになり、便の量が減り、色が黒くなり、臭いも強くなるということが起こります。逆に善玉菌が増えると、便の量が増え、色が黄色くなり、臭いも弱くなります。ということは、トイレで自分の腸内環境を推測することができるわけです。

悪玉菌が増えると便の状態と便通だけでなく、さまざまな悪影響が起こるようになります。悪玉菌は腸内の腐敗を進めるということで、毒素(有害物質)を作り出します。毒素が多い状態になっても、毎日スムーズに排出されていれば腸内に多く残るようなことはなくなります。

ところが、悪玉菌が多い状態は便通が悪くなり、便が大腸内に長く残るようになります。毒素は大腸壁(大腸の粘膜)を刺激して、その刺激が強く、長くなると炎症を起こすようになり、これが腸炎、腫瘍、がんにもつながっていきます。

大腸壁は水分を吸い上げて、便を適度な量にする役割があります。大腸に到達するまでは水分量が多いわけですが、この水分の吸い上げるという機能があるから何日も便秘が続いても便の量を少なくして溜め込むことができるようになるわけです。

その分だけ水分量が少なくなって硬くなり、ますます出にくくなるという悪循環を起こすことにもなります。

大腸内で発生する毒素は小さなサイズで、水分が吸い上げられるときに一緒に大腸壁を通過して、血液中に入り込みます。血液中の毒素は肝臓に運ばれて解毒されるのですが、毒素の量が多いと肝臓では処理しきれなくなり、再び血液中に入って全身を巡っていくようになります。

便秘をすると肌が荒れるというような場合が、毒素が皮膚まで送られている状態です。それは毒素が多すぎるのか肝臓の処理能力が低下しているのか、どちらかが原因と考えられます。

毒素は身体にとって排除すべきものであるので、免疫細胞が攻撃して分解しようとします。免疫細胞が余計なところに使われると、肝心な病原菌などの処理が間に合わなくなって、結果として免疫が低下することにもなります。

便通をよくすることは、全身の健康維持のためにも重要なことだということです。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕

卵(鶏卵)は品質も価格も安定していて、生産性が低下する夏場であっても変化はしないと言われてきました。

放し飼いをされている鶏であれば天候の影響を受けやすいものの、今のように卵工場と言われるような効率重視の生産体制だと変化は起こりにくく、卵の一般常識のまま発言をしても問題がないようなことが続いてきました。

これは卵用の鶏が暑さに弱くなったことも影響しています。鶏は卵から成長するので、“卵が先か鶏が先か”ということが言われますが、答えからすると鶏が先です。その卵を産む鶏は、ひよこの段階で海外から輸入されています、その割合は94%にも及んでいます。

国内で卵(有精卵)から生まれているのは6%でしかないわけですが、日本で鶏が産んでいる卵が自給率のベースとなるので、95%となっています。

ひよこは、どこからきているのかというと、フランス、カナダ、アメリカが多くを占めています。以前は東南アジアからの輸入が多く、その大半はタイが占めていました。以前の鶏は誕生した気温の関係から暑さに強かったので、夏場に卵の質が変わることは少なかったのですが、輸入地域の変化から暑場の卵の質が変わるようになってきました。

卵の“あるあるネタ”の中にLサイズとMサイズは正味重量が違っても、黄身の大きさに違いはないということがあります。正味重量はLサイズが約60g、Mサイズが約50gで、黄身の重量はLサイズが約19g、Mサイズが約18gです。

実際には違いはあるものの、これは誤差のうちということで「黄身の大きさは同じ」ということが言われているわけです。

ところが、ここ数年の猛暑の影響で、夏バテから鶏の食欲が低下して、夏場の卵は小ぶりになっています。また、黄身も小さくなっていて、これまでの“あるあるネタ”の通りにはいかなくなっているのです。
〔小林正人〕

日本の食料自給率は38%という数字が一人歩きしています。この割合はカロリーベースで、エネルギー(カロリー)に着目して、国民に供給される熱量に対する国内生産の割合を示しています。

もう一つの指標の生産額ベースでは食料自給率は58%となっています。

生産額ベースは、生産額(国内生産量×国産単価)から畜産物の飼料輸入額、加工食品の原料輸入額を差し引いたものです、

このほかに重量ベースという指標もあります。

食料品の国内自給率は、実際に国内で栽培、飼育している割合ではなくて、海外から輸入された飼料や肥料を使用している場合には、国内の生産の割合から差し引かれています。

動物の飼料は80%ほどが輸入品です。その90%近くはトウモロコシで、そのうちの70%ほどはアメリカから輸入されています。
国産牛といっても、飼料の輸入割合から考えると、もはや国産牛とは呼べない状況になっているのです。

野菜は生育には肥料が必要で、肥料を使って生育させていくことを前提にして品種改良が行われています。最良の種苗を最良の状態で最良の野菜にしていくためには肥料を使わなければならず、それも化学肥料を前提にしている野菜が多くなっています。

国内で栽培される野菜には国内で生産された肥料が使われているというイメージがあるかもしれませんが、実態は、そうではありません。化学肥料材料のほぼ全量は輸入品で、国産はほぼゼロ、つまり化学肥料の自給率は0%という状態です。

日本の場合、化学肥料の製造コストに占める割合は約60%となっています。野菜の自給率(重量ベース)は80%ほどとされていますが、化学肥料の自給率0%という実情を加味すると、50%を割るような状態と考えなければならないのかもしれません。
〔小林正人〕

日本で品種改良された優れた種子にはF1種というものがあります。これは在来の固定種に対するものを指しています。F1種の説明をする前に固定種について触れておくと、これは自家栽培などによって植物の持つ形質(性質、形など)が受け継がれたものを指しています。

これに対してF1種は、異なる優良な形質の種子(親)を掛け合わせて作られたものです。F1種は、味や見た目が優れているだけでなく、生育がよく、発芽時期や生育期間がそろっているので均一化しやすく、大量生産にも向くという特性があります。また、病気にも強く、これも栽培しやすく、無駄が少ないという特性もあります。

固定種であれば、栽培した農産物から種をとって、同じような農産物を育てることができます。ところが、F1種の性質が受け継がれるのは一代限りであるので、親と同じ子を作ることができない特性(デメリット)があります。

そのため、毎年、F1種の種子を購入しなければなりません。これは種子を販売する会社にとっては大きなメリットであり、常に種が売れるということで、F1種は日本国内の生産では間に合わない状態で、海外で盛んに生産(栽培)が行われています。

この状態は進むだけ進み、日本国内で栽培される野菜類の種子も、実際には海外で生産されたF1種の種子を輸入して使われています。現在の日本で使われている種子のうち、国内で生産された種子は5%ほどとなっています。

日本に輸入されている種子の3分の1ほどはチリからのもので、アメリカ、イタリア、中国と続いています。世界各国で種子を生産するのは天候による生産量の変動を避けるにはよいことであるとの考えから、農林水産省も推奨しています。

日本の伝統野菜であっても、今や種子を輸入して栽培している状態で、日本の農業は輸入に頼っている、海外から種子を輸入しているので、公表されている国内生産率と実態はかけ離れているという指摘も当たっているということです。
〔小林正人〕

タイトルの「欺瞞錯誤」は私たちの造語で、欺瞞(ぎまん)は他人の目をごまかし、欺く(あざむく)こと、騙す(だます)ことを指しています。錯誤(さくご)は思い違いのことですが、認識と行動が一致していないことを意味する場合にも使われます。

錯誤は、どちらかといったら考えていることと行動が異なっていて、そのために誤った(不可抗力ではなくて、わざと間違える)ことをすることを指して、使われる機会が増えてきています。

この造語を使うようになったのは、農作物の自給率についての情報が本来の伝えられるべき内容とは異なること、重要なポイントが抜けていることから、これは欺瞞と錯誤ではないかと感じたことが始まりでした。

その欺瞞錯誤は、メディアが仕掛ける場合もあって、そのような情報を見抜いてほしいということを書きたいために、わざわざメディア情報の特殊事情を説明してきたところもあります。

日本の農業は種の研究開発によって、よりよい栽培品が数多く誕生してきました。“よりよい”というのは、おいしさや栄養素と同時に栽培しやすさ(成長性、病気耐性)、長持ち(店頭での販売日数)ということも含めています。

すべてがかなえられればよいものの、おいしさと長持ちを優先させたために、栄養素が低下したという例もあります。その例としてあげられることが多いのはトマトの品種改良です。見た目は同じであっても、実はビタミンが少ない、酸味が少ないということも起こっています。

酸味が少ないために、トマトソースを作りにくい、おいしいソースを作るために、以前の品種が求められるということが増えているのです。
〔小林正人〕

「フィットネスの日」日本フィットネス協会が設立日にちなんで制定。

毎月22日:「カニカマの日」(スギヨ)、「禁煙の日」(禁煙推進学術ネットワーク)、「夫婦の日」(毎日新聞、味の素など)、「ラブラブサンドの日」(日糧製パン)

子どものときには漁村や農村にいたので、地域にテレビが入ってくるのは随分と遅かったのですが、3歳を前に親元を離れて暮らした母親の実家の寺院にはテレビがあり、床間に鎮座していました。

テレビの放送が始まったのは昭和28年(1953年)2月のことでNHKだけでした。8月には民放の日本テレビの放送も始まっていたものの、見ることができるのは都市部だけで、地方はテレビ番組=NHKでした。

その後、全国キー局が誕生して、都市部にいた従兄弟はラジオ東京テレビ(後の東京放送=TBS)の名犬ラッシーの話を盛んにしていたのですが、何の話をされているのか、さっぱりわからない状態で、“取り残され感”がありました。

私が親元を離れて母親の実家の寺院で暮らし始めた昭和33年(1958年)は“三種の神器”という用語が生まれた年で、年末には東京タワー(日本電波塔)が完成して、テレビ放送の発信が始まりました。

寺院は地域の交流の場でもあったのですが、スポーツ番組や有名なドラマなどが放送される夜には、近所の人で賑わっていて、土曜日、日曜日はテレビ観戦などで宴会騒ぎであったことを幼心にも覚えています。

小学校の入学を前にして親元に戻りましたが、父親の赴任地は山奥の村で、まだテレビがある家は数えるほどで、警察の駐在所勤務の父親には望んでも無理な話でした。家の真ん中にテレビがある時期が3年も続いた後で、情報の窓口がなくなったような空虚感があり、よほどボーッとしたのでしょう。

入学式の前にはテレビが家にやってきました。白黒の画面も大きくないものでしたが、父親の実家の米屋と、母親の実家の寺院の援助でした。“テレビっ子”ではないので、それほど見ることはなかったとのことですが、当時は放送時間も限られていました。

当時の新聞のテレビ番組欄の話を、大手広告代理店のテレビ担当から、テレビ番組欄はラジオ番組欄よりも少なかった、テレビは平日には昼休み(13時から16時)があって放送されなかったと聞きました。

そのテレビ担当者とは、後に総理大臣を務めた政治家の私邸で知り合ったのですが、テレビ草創期にアメリカのホームドラマを各局に入れる窓口になっていました。(この話は別の機会に詳しく紹介します)
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕