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子どものときに母親の実家の寺院で生まれ、3歳になる前から小学校にあがる寸前までの期間、親元を離れて寺院で暮らしていました。それが今の性格や考え方に影響を与えているのではないか、と言われることもあるのですが、浄土真宗の寺院であったので、他の宗派のような張り詰めた雰囲気ではありませんでした。

他の宗派では、というよりも、仏教そのもので禁じられている肉食妻帯は浄土真宗では禁じられていません。これは大きな特徴です。寺院があったのは漁師町で、魚は檀家が持ってきてくれるので買う必要がない状態で、子どものときに肉を食べた記憶がありません。

それが今の体質(獣肉を食べると調子が悪い)の要因かもしれないのですが、肉食妻帯の肉は鳥、獣、魚も含んでいるので、魚を食べてきたといっても他の宗派だったら堕落ということになるのかもしれません。

肉食妻帯の妻帯のほうは、子どものときに疑問を感じたのは、近所の寺院には住職の子どもや孫がいたことです。禁止をされていても何かの理由があれば結婚をしてもよいのか、子どもを作ってもよいのかということですが、子どもだったので養子とか婚外子のことは思いつきもしないことでした。

浄土真宗の開祖の親鸞聖人には妻がいて、開宗は後のことなので、それで妻帯を認めたなどという他の宗派からの厳しい指摘(反発)もあります。また、妻帯を認めたことから真宗十派という今の隆盛もあるとも考えられています。

真宗十派のうち親鸞聖人の家族から派生したのは浄土真宗本願寺派(本願寺)西本願寺、真宗大谷派(大谷本廟)東本願寺、真宗木辺派、真宗出雲路派だと大学で学びました。親鸞聖人の弟子から派生して、子どもが継いでいったのは真宗高田派、真宗佛光寺派、真宗興正派、真宗誠照寺派、真宗山門徒派、真宗山元派です。

今の自分が存在しているのも、他の宗派から指摘されることもなく生きていけるのも、親鸞聖人のおかげという気持ちが根底にはあります。

肉食妻帯が認められている代わりに、浄土真宗(真宗十派)は地獄がなく、地獄を引き合いに出して稼ぐこともできない、戒名もない、販売するようなもの(お札、おみくじ、お守り、御朱印帳)もないという現代社会では厳しい条件が課されています。

それだけに動物や植物の命をいただいて生きていくことも、当たり前の感覚です。とは言いながらも、ことさらに長々と感謝の言葉を述べてから食事をすることには、いつも違和感がありました。

食べることだけでなく、妻の支えを得て暮らしていくことができるのも、後ろめたさを感じることなく、堂々と生きていくことことができるおかげだと強く感じています。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕

東アジアのモンゴロイドは、同じような体型、顔立ちであることから、同じような体質であると考えられがちです。アメリカの研究機関で、中国在住の中国人に有効性(がんや肝臓など)があったキノコが、アメリカ人にも効果があるのかを研究されたことがあり、その結果として東洋人だけでなく、白人にも効果があることが確認されました。

その結果をもって、日本人にも効果があるのではないかとのことで研究が始められましたが、思った以上の結果は出なかったということがあります。その理由として考えられたことの一つに、日本人と中国人では見た目は似ていても(欧米人と比較して)体質が違っているのではないか、ということがありました。

中国人といっても多民族国家であって56民族が確認されています。そのうち漢民族は約92%を占めていて、それ以外の55民族は少数民族とされています。今の漢民族は北方系が多く、食文化的には肉食(特に豚肉)が中心であることから、体質的には肉食によって進化をしてきた欧米人と同様となっています。

そのために血管は丈夫であるものの、脂肪を摂りすぎると血管のダメージ(動脈硬化など)が強く現れがちです。歴史的な肉食のおかげで、エネルギー代謝がよく、免疫も高くなっています。漢民族の腸内細菌の種類と分布は、日本人よりも欧米人に近く、これも肉食が多い歴史的な特徴といえます。

それに対して日本人は肉食が少なく、国民的に肉食が増えたのは戦後(80年前)のことで、歴史的には身近な期間でしかありません。

日本人は肉よりも魚を食べてきたという印象があるものの、実際に魚を食べる量が増えたのは戦後に冷蔵流通が始まってからで、それまでは海に近いところ以外は魚を食べていたとしても少ない量でした。

日本は島国であることから単一の民族であったとの考え方がある一方で、弥生時代の担い手であった渡来人は、日本列島に北から南から、そして朝鮮半島から渡ってきたので、混じり合った血統と考えられています。

現在の“日本人”は数千年前(弥生時代は紀元前10世紀から紀元後3世紀)に日本に訪れた渡来人まで遡ることはしないとしても、少なくとも3世代(曽祖父)前の時代まで日本人同士で結婚した人という前提をとっています。

片親が日本人(日本の国籍)であれば、その子どもは日本人という一般的な定義は体質研究では採られていません。外見が同じであっても、体質は違っていることがあり、そこに着目しないままされている体質研究と、それに基づく健康指導は実は違っているのではないかというのが、「シン・日本人の体質」研究のスタートラインとなっています。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕

筋肉を増やすためには、筋肉細胞の中で作り出されたエネルギーを使って、タンパク質を合成することが必要です。細胞にはエネルギーを使って、細胞内で必要になる物質を作り出す機能があり、その働きは酵素によって起こっています。酵素は細胞内の生化学反応を高める触媒のようなものです。

この酵素による生化学反応にはミネラルが必要になります。ミネラルは酵素の重要な構成成分となっています。それは補酵素としての役割です。補酵素というのは、その名のとおり酵素を補う役割をしています。酵素は一部が欠けた状態になっていて、そこに補酵素が結びつくことによって酵素本来の働きをすることができます。

補酵素としてはマグネシウム、亜鉛、鉄、銅などがありますが、その中でも特に重要となるのはマグネシウムと亜鉛です。体内には5000種類もの酵素があります。それぞれに相性のよい補酵素が決まっています。マグネシウムは約300種類の酵素に対する補酵素となっています。

亜鉛は約200種類の酵素に対する補酵素で、合計すると500種類の酵素の働きに関わってきます。その重要性を示すときに以下のような話をしています。
「会社に5000人の社員がいて、そのうちの500人が必要とされる能力が発揮されずに、働いてくれなかったとしたら、会社が傾いてしまいます。」

補酵素が充分にあることで酵素の働きがよくなり、それによって必要な成分、ここでは筋肉細胞の話をしていますが、筋肉が多くなれば作り出されるエネルギーが多くなり、それによって酵素も多く作られ、酵素の働きもよくなるので、筋肉強化の好循環となってくれるということです。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕

「明治ミルクチョコレートの日」明治がミルクチョコレートが発売された1926年9月13日にちなんで制定。

毎月13日:「一汁一菜の日」(一汁一菜ぷらす・みらいご飯)、「お父さんの日」(ヤクルト本社)、「登山の日」(ICI石井スポーツ)

私の修行のベースとなっている浄土真宗でするべきことは、ただ一つ阿弥陀如来への信心です。信心して往生させてもらうこと(死に臨むこと)は他力本願です。この他力本願という言葉を出すまでは、なんとなく納得して話を聞いてくれていた方が、急に態度を変えることがあります。

他力本願のように他に頼るのではなく、自分の成功は自分の力、努力の結果であって“自力本願”だという考えがある人がいることは理解できます。

しかし、浄土真宗の開祖の親鸞聖人の教えを引き合いに出すなら、自力というのは阿弥陀如来の本願を疑うことであって、自力本願の自信こそが苦を生み出すことになっているということです。このことを理解してもらうまでには、かなりの時間がかかります。

他力本願というと、他人に頼って生きていくというイメージがあって、あまりすすめられることでもなければ、褒められることでもない行動指針であると思われがちです。

仏教の世界では、修行というと苦行を指すことがあります。坐禅や瞑想、それも室内で行うことだけではなくて、屋外で雨風に晒されながら、心身の限界まで挑むという印象があるかもしれません。

その苦行を経験することで、自分自身を磨き、願いをかなえていくというのは自力本願です。苦行とはいかないまでも、五穀断ちをする人もいます。これは穀物を人間の穢れにまみれた俗物の代表的なものと考えて、それを避けることで身を清廉にして修行に取り組もうとすることを指しています。

五穀断ちをすれば、それが修行になるということではなくて、修行のアイテムの一つだとは思うのですが、お茶断ち、酒断ちをして、それも短い修行期間だけこなして、修行をした“気分”になるという略式の感覚が広まっているようです。

そのようなことでも、頑張った自分に優越感を得て、自力本願としてするような感覚が世間にはあることも違和感があるところです。

このようなことを書くのは、私が大学や社会人として学ばせてもらった仏教の世界では、自力本願は不要なことであって、阿弥陀如来を信心する他力本願だけが存在しています。これは親鸞聖人の教えに従っているだけです。

この教えに従って本願を得る場が本願寺となるわけですが、信心をするのは、ただワンフレーズを唱えればよいということではなくて、また経文を読み続ければよいということでもありません。

親鸞聖人の教えを真理として、自分の行いとのズレを確認することが信心の修行であり、信心のためには小さなことであっても実践し続けることはあります。この修行は、短期間の苦行とは違って、“小さなことをコツコツと”というお笑い芸人の師匠のフレーズではないのですが、生きている限りは実践し続けるという終わりがないことなのです。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕

サードプレイスが注目されるようになったのは、1989年に発行された『ザ・グレート・グッド・プレイス』で、著者のアメリカの社会学者レイ・オルデンバーグ(社会学博士・西フロリダ大学社会学部名誉教授)が提唱した第3の居場所によって意識の高まりが見られるようになりました。

自動車依存型の社会であるアメリカは、家庭(第1の居場所)と職場(第2の居場所)を往復する生活に追われていることから、その改善のモデルとしてヨーロッパに目が向けられました。ヨーロッパではカフェが飲食の目的だけでなく、自由に交流する場として重要な役割を果たしていることが着目されました。

この時代は、ヨーロッパではスローフード運動が展開されていて、スローフードやスローライフの価値が見直され始めていたことも、その背景にあります。

第1の居場所(ファーストプレイス)は、生活の基本となる自宅を指していて、食事、入浴、就寝など人間としての生命や健康を維持するために必要な場所です。家族がともに生活をする場所でもあって、そこには家族に対する義務や責任も存在しています。

第2の居場所(セカンドプレイス)は、職場や学校などの自宅以外で長い時間を過ごす場所です。経済活動や学習など、生活の糧を得るために欠かせない場所であり、仕事や学業、それらの同僚などへの責務(義務、責任)が存在しています。

第3の居場所(サードプレイス)は、義務や必要性に縛られるのではなくて、自らの心の動きに従って、進んで向かう場所を指しています。息抜きや趣味などの心安らぐ場であり、レイ・オルデンバーグは著書の中で8つの条件をあげています。

・中立性のある場所
・すべての人に平等な場所
・会話が重視される場所
・アクセスしやすい場所
・常連のいる場所
・控えめだが安心感のある場所
・陽気な雰囲気のある場所
・第2の家となる場所

サードプレイスには、①自分らしさを体現できて、ストレスや精神的不安が軽減され、生活に潤いを与える、②共通の関心を持つ仲間に囲まれ、心を通わせることで疎外感や孤独感を覚えにくくなる、③新しい価値観や人とのつながりを得ることができる、④市民活動が活発になり、文化や心の豊かさが生まれる、といった利点が掲げられています。

これらの4つの利点は、従来の第3の居場所から踏み出した第4の居場所でこそ醸成されるものとの考えを持って、セカンドステージの活動に取り組んでいます。
〔セカンドステージ連盟 小林正人〕

「秋のメープルもみじの日」洋菓子のサンエール(広島市)が1966年9月12日に広島県の県木がモミジに決定したことにちなんで制定。

毎月12日:「パンの日」(パン食普及協議会)、「育児の日」(神戸新聞社)

浄土真宗が他の宗派と大きく異なっているのは、地獄が存在しないことです。浄土真宗の信者は、亡くなった誰もが極楽にいくことができるという教えです。

地獄があるとしたら、それは生きている現世に存在していることになります。浄土真宗の開祖の親鸞聖人の教えの中に「地獄」という言葉は出てこないわけではなくて、別の文字で書かれています。それは「自業苦」(じごく)です。

自業は自業自得の前の部分のことで、自分が行ってきたことによって苦しむのは「自業苦」だとされています。これは何も悪いことや失敗をしたことを指しているだけではなくて、自ら行ったことが結果として現れているということで、よいことをしても苦しむことがあります。

他の人よりもよい生活をしている人が今の生活を崩したくない、もっとよい生活をしたいと望み、それがかなえられないこと、思ったよりも歩みが鈍いことを苦しみのように感じることがあります。これも自業苦となります。

この苦しみを、楽に変える生活ができれば、業の苦が楽になるということで「業苦楽」(ごくらく)となります。自業苦がなければ業苦楽もない、つまり苦しみを感じて自分を変えることができた人は、すべてが極楽に行けるという極楽往生という発想です。

しかし、誰でも極楽に行ける、念仏を唱えるだけで極楽に行けるという簡単なことではありません。阿弥陀如来に信心をすることで極楽に行くことができるということです。
そのために地獄という概念がないので、一生懸命に信心しないと「地獄に落ちる」ということもありません。地獄に落ちたくなければ善行を積めばよい、と言って(脅して)苦行や、苦行がわりの金品を求めるということもありません。

亡くなった人の魂は、この世に残っているわけではないので、お墓は祖先を偲ぶ場であって、そこで祈りを捧げると魂が現世に戻ってくることもありません。お盆は他宗では迎え火と送り火が行われますが、浄土真宗では送り火も迎え火もなく、お盆に行われていることも他宗と比較するまでは知りませんでした。お盆に墓参りをすることはあっても、これも故人や祖先を偲ぶために行くだけです。

現世で業苦楽(極楽)を感じることができれば、亡くなったときに即座に自動的に極楽浄土に行けるわけで、閻魔大王のお裁きを受けることもない、そもそも裁判が行われる冥土に行くこともないわけです。

自業苦を経験しなければ業苦楽もないということであれば、「苦しむことは修行のうち」と考えられることもあります。これにも異論があって、浄土真宗では苦行も坐禅もありません。

「自業苦」を経験しなければ絶対に極楽に行くことがないということではなくて、「自業苦」を感じた人であっても極楽に行くことができるということですが、この説明は他宗の方には理解しにくいことのようです。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕

微表情の分析は、7つの基本的な感情表現に分けられています。感情の変化は、対面する人との関係性などによって微妙に変わってくるので、紹介することだけで完全に理解することはできません。

しかし、7つの感情表現がわかり、それを組み合わせることで、かなりのところはわかってきます。

◎喜び(Happiness)
7つの感情表現の中で最も判別しやすい表情で、頬が押し上げられ、両唇が上に上がるという笑いの表情に近くなります。笑い顔であっても、それが本当の表情なのか、それとも嘘の笑い(作り笑い)であるかを見抜くことができれば、人間関係は断然と優位になります。

微表情として特に注意したいのは目元の動きで、眼輪筋(目の周りの筋肉)は自らの意思で全体をスムーズに動かすことはできません。動きがスムーズではない笑いの表情が作り笑いの特徴であり、目元の変化が少ないことがわかります。

目元の筋肉が動くときには、眉が少し下がり、目の下の皮膚にシワが寄ります。この変化によって、言葉では喜びを感じていないようなことを言っていても、実は違った感情があることがわかります。

◎悲しみ(Sadness)
眉の下隅が吊り上がり、上まぶたが垂れ下がり、わずかに唇の両端が引き下がります。

◎怒り(Anger)
怒りの表情は、本人は見せたくないと感情を抑制しようとしても、なかなか抑えきれず、微表情では見抜きやすい表情分析となっています。とはいっても、微表情分析で参考にされる唇の動きは、怒りの表情では見分けにくいとされることがあり、それは唇が開いている場合と、閉じている場合があるからです。

唇が閉じている場合の怒りの表情では、唇は緊張のために強く結ばれています。これに対して唇が開いている場合の怒りの表情では、緊張して薄くなっています。

眉は左右が同時に引き下がります。上まぶたは吊り上がり、下まぶたは緊張によって凝視しているように見えます。

残りの4つの表情は、次回に紹介します。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕

健康や医療に関する正しい情報を入手して、理解して活用する能力である健康リテラシーの向上が、健康づくりの重要な要素になると言われても、個々が健康リテラシーを高めるのは、そう簡単なことではありません。

自分で判断して、判断したとおりに自分で実施するのは限界があることから、メディア情報や信頼のおける人(と思っている人?)の情報や指導を信じ込んでしまうところがあるのが普通のことですが、それは頼るべき人の選択が正しかったのか、ということにもつながっていきます。

健康を実感するための自主的な活動には、その根幹となる情報を提供してくれる存在、その情報を分析・選択して伝えてくれる存在が大切になります。

正しい情報の選択、実践、継続のためにはガイドライン、中心となるメンバーと、伴走する存在が必要であり、その存在を私たちはメンターと呼んでいます。

メンター(Mentor)は助言者を意味します。指導者のように絶大な権限や知識、情報などを振りかざすのではなく、あくまでもサポーターとして支える立場です。

そのメンターは、初めこそ外部から迎え入れたとしても、活動が進むにつれて活動の主軸となる方々が自らメンターになっていくことで、そのためには初めのうちはインプットが必要になります。

学び続けるインターン(intern)のようにメンターとなることを目指すということで、これを示すためにメンターン(Mentern)との造語を使っています。

健康分野の研究は、常に進歩を遂げ、更新も繰り返されているだけに、古い情報は“間違い情報”にもなりかねません。たとえ、メンターとしての地域を確立したとしても、常にインターンのように情報を収集し続け、情報を分析することは必要です。

それを自らができないのだとしたら、自らをメンターンと認識して、広く情報を収集・分析できる別の立場のメンターを求めるべきだと考えます。それこそが健康アナリストとしての存在価値だと強く認識しています。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕