奇跡の軌跡4 親元を離れたためのプレッシャー

“いじめ”というのは物理的、心理的な攻撃を受けることによって精神的な苦痛が生じている状態を指すという今の定義に当てはめるなら、私が親元を離れて暮らさなければならなかったことは当てはまらないはずです。

父親が警察官であるということは地方では“いじめ”の対象になりにくいということもありました。また、父や叔父の影響で剣道、柔道、居合道などを幼いときから身につけていたこと、子どもの頃は今の姿からは想像でないことですが、クラスで2番目の長身でした(なぜか、どの転校先でも2番目)。

そのような“いじめ”とは異なる心理的プレッシャーは、子どもが自我を形成する3歳を前にして感じるような環境にいました。その初めは“松之山事件”でした。このことについては歴史の一コマとして検索すれば出てくることで、その影響を受けた関係者の立場や心情が検索で出てくることはありません。

事件が起こった松之山村(現在は新潟県十日町市の一部)は、温泉地が有名な山奥の集落で、父の勤務先の駐在所があることから、母の実家の寺がある出雲崎町(海辺の漁師町)で生まれた後、しばらくして松之山温泉の近くで暮らすことになりました。

そのときから2年後の1958年1月20日に、松之山村の東川駐在所の新人警察官が住人3人を射殺するという戦後初の不祥事が起こりました。その知らせを受けた父は、拳銃に初めて実弾を装填して出向いたそうですが、すでに警察官は拳銃で自殺していました。

警察だけの問題では済まず、地域をあげての対応が必要となった非常事態だけに、その後に東川駐在所に誰を勤務させるかが大きな問題となりました。地域の住民は警官が通るだけで逃げ出す、子どもは泣き出すという状態のところに誰が赴任するのか相当に議論されたといいますが、結局は近い駐在所に勤務していた父が母と私とともに異動することになりました。

幼かった私は、まったく記憶がないのですが、後に両親から社会的な“いじめ”があるような状態での子育ては難しいからと、母の実家の寺で、小学校の入学直前まで暮らすようになりました。

この経験が、よい結果につながれば奇跡と呼べるのでしょうが、それがわかってきたのは東京の大学に入学してからのことでした。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕