ポストコロナ「弘法も派手な誤り」2

「弘法も筆の誤り」をもじった「弘法も派手な誤り」は、国のリーダーのコロナ対策が間違っていたとか、本来のリーダーの意図を理解せずに下の者が実施を誤った、ということを言いたいわけではなくて、今の段階では正しいと信じて行ったことが、あとあとになって「派手な誤り」だということがわかってから、慌てて取り戻そうとしても間に合わないということを示そうとして使っています。
正しいことだったのか、“派手な誤り”だったのかということは、後になってからでなければ本当のことはわかりません。実際の対策は、そのときの状況に合わせて実施するしかないというのは一般的な常識で、これまでのコロナ対策も、そのような観点で実施されてきました。その結果が、どうなったのか、改善してきていると思って下した判断が実際のところは国民の期待を裏切る結果になったことも、多くの国民が気づいていることです。
よい結果を想定して手を打つことは多くの人がやっていること、やりたがっていることですが、それと同時に絶対に起こってほしくないということも同時に想定して手をつけておくことが大切です。手をつけないとしても、頭の中で想定だけはしておくべきことです。それがないから、万が一にも最悪のことが起こってしまったときに、慌てふためいて、行動を起こすべきタイミングで何もできないということにもなりかねません。
新型コロナウイルス対策で言えば、“弘法”の文字は攻めたり防いだりの“攻防”になるのでしょうし、興ったり滅びたりする“興亡”になるかもしれませんが、コロナ対策が“派手な誤り”であっては、国民に謝っても仕方がないということにもなります。
そのような派手な誤りを起こさないようにするために、考えておかなければならないのは、国のリーダーが最大の対策としたワクチンが、ひょっとすると今後も感染を長引かせ、より悪化させることになるのではないか、ということで、そのときの対策をもって、次の段階に備えておくべきではないかということです。なんだかわかりにくい表現ですが、何を言いたかったのかということについては次回で明らかにしていきます。