変化の兆しどころか、すでに変化があっても、それがすぐに直接的に自分や家族に影響を与えない限りは、なかなか変化として捉えられないのが凡人(というか一般の感覚)です。変化を察知して、すぐに対応をしなければならないことが起こっていても、目の前の出来事(奥さんが頑張って作ってくれたおいしい夕食が目の前にある、子どもや孫が隣にいて遊んであげたい)のほうが重要と感じて、変化への対応が後回しになってしますのは凡人の対応としては当たり前のことです。
危機的なことが始まっていても、徐々にしか進んでいないときには気づかないことです。それをよいことに、徐々にしか発表しないというマインドコントロール(宗教的なことではなくて社会的な)も常に行われています。急に株価が大きく下がった、大きく円安が進んだということがあったら気づけたとしても、これが徐々に発表されていて、その影響は大したことがない、すぐに回復するというような情報が流されていると、危機や痛み、苦しさがわからなくなってきます。
“茹で蛙”という言葉があります。そのまま訳すと茹でられた蛙(かえる)ということですが、諺(ことわざ)のように使うときには、違った意味になります。蛙を急に熱いお湯に入れると驚いて逃げ出すのに、常温のお湯に入れて、徐々に温度を上げていくと逃げ出すタイミングを失い、死んでしまうという意味で使われています。
この言葉は、東京にいたときにゴーストライターとして手がけた書籍(合計で184冊)の中でも何度も使ってきました。それだけ心に響きやすいと同時に、心当たりがある人が多く、そのために死にそうな思いをさせられたという人も多いからです。
今の環境を冷静に判断できるなら、少なくとも茹で蛙になる前に逃げ出すことができるはずですが、今日起こったよいことは明日も続く、今日起こったよくないことは明日は弱まっている(消えている、消えてほしい)という感覚だと、死ぬまで気づかない「○○は死ななきゃ治らない」状況にもなりかねません。死なないと治らない、死なないと気づかない(死んだら気づけない!)○○に入る存在にだけはなりたくないので、危機を教えてくれる先達は大切で、その一翼を担う“健康あない人”になりたいと願っているのです。
(日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人)