子どものときに親元を離れて、母の実家の寺で過ごしていたときのこと、玄関に脱がれていた草履をきちんと並べることを誰に言われるでもなく、当たり前のこととしてやっていました。
それは脱ぎ散らかされていることへの抵抗感や、きちんと並べることを誰かに褒められるということではなくて、初めに脱いで上がった人が整えていても、次々に来客があると、前の人の草履がズレることもあります。誰の草履かというと他の寺のお坊さんのもので、法要などでは多くのお坊さんが訪れるために、狭い玄関が草履だらけになることもありました。
草履を整えておくのは、帰りに玄関が混雑しないためでもあり、最初のうちに帰る数人は誰か子どもにもわかっていたので、その方々の草履を手前の真ん中に置くようにしました。
それができたのは、草履に寺の名前、複数のお坊さんがいる場合は名前が書かれていたからです。名前が書かれたものが曲がっているのは、看板を曲げてかけるようなもので、きちんと整えるのは幼いときの自然に身についた修行の成果のようなものだったのかもしれません。
今では靴を揃える、スリッパを揃えるということになるのでしょうが、スリッパを平気で脱ぎ散らかして部屋にあがるのは、誰のものかわからないことが気を緩めさせているからだと考えています。
社会人になってウォーキングのイベントで、お寺まで集団で歩き、お参りをさせてもらったときに、玄関に下駄箱があり、「看脚下」と紙が貼られていました。「看脚下」は何も足元を見て、靴を整えるという意味ではなくて、自分の足元を見直すという禅宗の教えの言葉です。
わざわざ貼り出さなければ脱ぎ散らかされるのかと思いながら、足元を整えることは下足だけでなく、健康のために歩くときにも同じことだと思ったものです。
〔日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人〕