最新情報

10月6日の記念日

「登録販売者の日」日本チェーンドラッグストア協会が登(10)録(6)の語呂合わせで制定。 「メディカルスパトロンの日」入浴施設メディカル(医療)スパ(温泉)トロン(放射性元素)を運営するヘルシーピープル(東京都北区)がト(10)ロ(6)ンの語呂合わせで制定。 「どろソースの日」オリバーソース(兵庫県神戸市)が、ど(10)ろ(6)の語呂合わせで制定。 「でん六の日」でん六(山形県山


日々修行37 記念日づくりの修行

記念日がブームになるきっかけとなったのは「サラダ記念日」とされています。歌人・俵万智の第一歌集(1987年発行)で、280万部の大ベストセラーを記録しました。 『「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日』 その前にも記念日はメディアにも取り上げられていましたが、特定の1日を記念する日(建国記念日など)が多く、今のようなキャンペーンやイベント的な要素の記念日ではありません


「昭和100年」5 スマホが使えなくなった時代を想像できるか

2000年問題のときには、2000年が1900年と誤った認識をされることになるのを心配して、今まで膨大な金と時間をかけて構築してきたデジタル社会への対処が必要になりました。 一つは、見直しをすることで、基本的なデータまで探ってシステム障害が起こらないようにすること、システム障害が起こっても対応できるような状態にしていくことでした。もう一つの方法は、古いシステムで使われたものを廃棄することでし


発達栄養学10 発達のための食べ方指導

発達のためには、運動、生活リズム改善、睡眠、休養などが実施されますが、これらと並んで食事と栄養も重要となります。発達障害に限らず、子どもの脳と身体の成長のためには、必要な栄養素を確保することが第一条件となっています。 しかし、栄養バランスの取れた料理を出して、それをすべて食べていれば健康が保たれて、成長に必要な栄養素が吸収されて、体内に蓄積されるというわけではありません。 1日に必要な


10月5日の記念日

「レモンの日」詩人・高村光太郎の詩集「智恵子抄」のレモン哀歌、妻・智恵子の命日にちなんで制定。 「みそおでんの日」ヨコオデイリーフーズ(群馬県甘楽町)が田楽みそおでんにみそだれをつけて販売した1994年10月5日にちなんで制定。 「カナダ・メープルの日」ケベック・メープルシロップ生産者協会がカナダ産のメープルシロップの普及のためにメープルの葉が赤く色づく10月と葉が人の手で数字の5を示


日々修行36 東日本大震災後の修行

2011年3月11日の東日本大震災は、多くの人の生活と、その後の生き方にも大きな影響を与えました。私も影響を受けた一人で、私が力を注いできたテレビ番組(全国キー局)の健康関連の情報が大きく変わるきっかけとなりました。 テレビ業界ではNHKを除くと、スポンサー企業(番組提供)への配慮があり、番組内で伝える内容も、どうしてもスポンサー寄りになりがちです。少なくともライバル企業を利するような情報は


シン・日本人の体質6 国民的な体質は急には変わらない

今回のお題の「国民的な体質は急には変わらない」は、その後に「はず」とつけるのが正しいのかもしれません。日本人は冷えやすい体質であることは、ずっと以前から言われてきたことで、中国の明の時代(日本では室町時代)の文献にも、身体が冷えやすいことを示す記録が残されています。 その理由までは書かれていないのですが、身体が冷えやすいのは科学的に説明すると血流の低さ(悪さ)が大きく関わっています。血液の温


4thプレイス7 セカンドステージが目指す4thプレイス

私が代表を務める特定非営利活動法人(NPO法人)セカンドステージ連盟は、働く人が自分らしさを発揮して活躍できるセカンド(second)ステージ(stage)の創出と運営を目指した活動を進めています。 と言っても、実際の居場所を建物として造るわけでも、店舗などとして使用できる場所を借りるわけでもありません。こういった居場所を作るのは私たちの役割ではなくて、そういった居場所を必要とする人たちのた


10月4日の記念日

「いわしの日」大阪おさかな健康食品協議会が、い(1)わ(0)し(4)の語呂合わせで制定。 「徒歩の日」徒歩を楽しむ会(宮崎県宮崎市)が徒(10)歩(4)の語呂合わせで制定。 「糖質ゼロの日」月桂冠が糖質ゼロの日本酒の普及のために糖(10)質(4)の語呂合わせで制定。 「ロールキャベツの日」ヤマガタ食品(静岡県沼津市)が1893年10月4日の日刊時事新報にロールキャベツの原型のキャ


日々修行35 地震後の修行

2007年の新潟県中越沖地震は実家のある柏崎市が最大の被害を受け、震災後に必ずと言っていいほど実家の前でテレビの中継があったので、毎日、朝昼晩と安否を確認することができました。それは実家が市の中心街で最も被害を受けた建物だったからです。 たまたま弟が地元の損害保険会社の社長で、的確な保険をかけていたので、震災前の状態に戻すことはできました。損害保険の調査で、会社は歩いて3分のところにあるのに