執筆業のきっかけは台湾坊主だった

久しぶりを父のことを思い出して、父の文才は凄かったなと思い起こしているところです。そのきっかけとなったのは“台湾坊主”でした。そんな名前の妖怪でもなければ、台湾出身の坊主頭の人でもなくて、台湾近海に発達する温帯低気圧のことです。発生初期に等圧線が坊主頭の形に張り出すことから、そう名付けられたとのことですが、大阪万国博覧会があった昭和45年(1970年)の1月末から2月初めに日本海低気圧と合体して台風並みの暴風が東北から北日本を襲いました。
そのときに父は警察官の転勤で新潟県糸魚川市にいて、台湾坊主の被害に備えるために海岸線に出向いていました。今でも台風が接近したら海や川の被害状況を見に行く人が巻き込まれたというニュースが流れていますが、そのときにも父は最前線で住民を避難させ、住民避難のために一緒に活動していた消防団員を避難させ、自分が最後に避難するというときになって猫が逃げ遅れていたのを目にしました。その猫を逃がしたときに大波に巻き込まれました。
波が持ち上げた砂の下に埋まり、自力で砂をかき分けて、なんとか脱出することができました。そのときの話を父から聞き、後に市の広報誌に「九死に一生を得た」とのタイトルで連載をした原稿を見て、実際に起こったことを映像が出てくるように感じたものです。
当時の糸魚川警察署の副署長が父の従兄弟で、その副署長が家に知らせにきたときに、これは尋常でないことが起こったと感じました。母だけが着替えを持ってかけつけ、私は弟と家に残されました。後に、とても子どもに見せられる姿ではなかった、と母から聞いています。
「休止に一生を得た」の文章は、確か1回分が400字原稿用紙に2枚だったと記憶しています。タイトルが入るので、書いた文字数は630文字でした。なぜ文字数まで覚えているのかというと、朝日新聞の天声人語の文字数と同じだと聞いたからです。(今は天声人語は少なくなって603文字です)
父が手書きした原稿を中学生だった私に渡して、読んでみてわかりにくいところや漢字をひらがなにしたほうがよいところがあったら直すようにと言いました。これは読む人のことを考えてのことで、中学生がわかるなら大丈夫という意味だろうと思って手伝いをしました。広報誌に掲載されたときに、父から経験したこと、知ってほしいことを、どんなに短くてもよいので書いてみろ、そのためには読むことから始まると言われ、図書館で朝日新聞の天声人語を読まされました。
普通なら子どもが好きそうな書籍を渡すところでしょうが、そのときから天声人語を、そのまま書き写すことが始まり、そのうち同じテーマを自分なりに書くようになりました。それを見た父が「文才がある」と評してくれたのが嬉しくて、社会人になってから他人の文章を代わりに書くことがあり(有名な経営者の講演録)、それを大喜びしてくれたことが始まりで、なんとゴーストライターとして184冊を書く結果となりました。
(日本メディカルダイエット支援機構 理事長:小林正人)